五十余年の生涯の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡くなって、その領地にあたる木曾谷を輿で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞でしたわい。」
――「夜明け前」
「夜明け前」を読んでいると山村代官がすごく権力をもっていたことが改めて思われるのであるが、考えてみると、福島のみこしまくりも山村の示威行動みたいな側面がある気もするのであった。『木曽福島町史』には、たしかみこしを落っことしたのを山村代官が笑ったので習慣化したみたいな説が書いてあったように思う。トランプが人民の暴動を煽ったみたいな側面が、みこしをひっくり返す行為にもあるかもしれないわけである。
冬の木曽に帰ると、明らかに四国のぬるけきったのとはまるで匂いもなにもかも違う、山林地帯の空気にびっくりするが、道や建物がちがっていても、たぶんこの空気だけは、平安時代の空気と余り違っていない筈である。義仲も寒かっただろうて。
こういう空気と、我々が「空気を読む」問題とは明らかに違っているが、どこか似たところもあると感づいたのが、晩年の藤村であり、日本浪曼派であろう。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
この「西」は、西洋にも繋がっていよう。しかし繋がっているのは空気ではなく、人そのものである。街道は、そのことを見せ付ける場所である。これは日本の話であってそうでもない。