★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

山の中を通る空気と人

2021-12-16 23:12:32 | 文学


五十余年の生涯の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸がこの街道を通った時のことにとどめをさす。藩主は江戸で亡くなって、その領地にあたる木曾谷を輿で運ばれて行った。福島の代官、山村氏から言えば、木曾谷中の行政上の支配権だけをこの名古屋の大領主から託されているわけだ。吉左衛門らは二人の主人をいただいていることになるので、名古屋城の藩主を尾州の殿と呼び、その配下にある山村氏を福島の旦那様と呼んで、「殿様」と「旦那様」で区別していた。
「あれは天保十年のことでした。全く、あの時の御通行は前代未聞でしたわい。」


――「夜明け前」


「夜明け前」を読んでいると山村代官がすごく権力をもっていたことが改めて思われるのであるが、考えてみると、福島のみこしまくりも山村の示威行動みたいな側面がある気もするのであった。『木曽福島町史』には、たしかみこしを落っことしたのを山村代官が笑ったので習慣化したみたいな説が書いてあったように思う。トランプが人民の暴動を煽ったみたいな側面が、みこしをひっくり返す行為にもあるかもしれないわけである。

冬の木曽に帰ると、明らかに四国のぬるけきったのとはまるで匂いもなにもかも違う、山林地帯の空気にびっくりするが、道や建物がちがっていても、たぶんこの空気だけは、平安時代の空気と余り違っていない筈である。義仲も寒かっただろうて。

こういう空気と、我々が「空気を読む」問題とは明らかに違っているが、どこか似たところもあると感づいたのが、晩年の藤村であり、日本浪曼派であろう。

山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。

この「西」は、西洋にも繋がっていよう。しかし繋がっているのは空気ではなく、人そのものである。街道は、そのことを見せ付ける場所である。これは日本の話であってそうでもない。

はねくその普遍性

2021-12-15 23:40:03 | 文学


萩踏んで膝を屈めて用を足し 萩のはねくそこれが初めて


これは、坂出に歌碑があると聞いている。まだ確かめていないが、いつか行ってみようと思う。思うが、恵那市にも同じ伝承がある。確かに西行ぐらいになると、全国各地でひりちらかし跳ね散らかしていたような気がしないでもない。空海が池を掘り散らかしていたようなものだ。つまり、だれでも糞をしたり池を掘ったりする事そのものが空海や西行に置き換わっているだけで、嘘をついているわけではないのだ。嘘だと言われれば、西行のように私たちも糞をする、で十分だ。これに比べると、下のような歌に感情移入するのは近代人という気がする。

風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな

これに対して、通俗といってしまう歌人の心は汚れていると小林秀雄は言う(『無常といふ事』、「西行」)のだが、小林の文章というのは悪口を描いてけしてゆくみたいなところがあり、いちど悪口を言う事が大事なのである。小林は、結局、悪口を消してゆくことの非普遍性にあまり気付かなかったのではなかろうか。ネット社会をみれば、西行のうんちを面白がって碑を建てたりしている広がり方の方が普遍性があることは明らかである。

牛に牽かれて

2021-12-14 23:38:02 | 文学
三年へて折々さらす布引を けふ立ちこめていつかきてみん

縁語、掛詞のパレードのような歌であるが、小諸の釈尊寺、布引観音の歌なのである。吝嗇な婆さんを牛に布をひっかけさせて善光寺参りさせた伝承のところで、西行もこれから善光寺に行くのであろうか。でもまあしかし、もう一回帰ってきて布引観音に会いに来ても良さそうなものである。わたしは布引観音にあった事はないが、善光寺よりもなかなかの景観であって、浅間山まで見えるのである。洒落で遊んでいる人間はしばしば風景が見えなくなるものである。

よくかんがえてみると、牛に引かれて小諸から善光寺まで行った婆さんはものすごい根性であって、普通諦めるであろう。この根性はなにかレジスタンスのそれを思わせる。善光寺参りのイデオローグと婆さんの対決がこの話のテーマではなかろうか。

 丘の 南の なたね畑の 中で じつと まつて ゐた 仔牛の 頭に、やがて 小ちやく 生えて 來たのは、白鳥の 羽でも なく、鹿の 角でも なく、ふつうの 牛の まるい 角でした。仔牛が お父さん牛と お母さん牛の ところへ かへつて 來ると 二人の 親牛は 眼を しばたゝいて よろこびました。そして いひあひました。
「まあ、よかつた。でも 何て りつぱな 牛に なつた ことだらう。」


――新美南吉「仔牛」


父親は立派な角を、母親は天使の羽を望んだ。しかし子どもから生えてきたのは円い角であった。吝嗇のばあさんもこういう仔牛にあえば、一生仲良く暮らしたであろうに、善光寺に連行されたものだから、かわいそうな一生を送ったにちがいない。



12月だけど咲いた朝顔

一歩下がって出家せず

2021-12-13 23:23:43 | 文学


山深くさこそ心はかよふとも 住まであはれを知らんものかは

悟りは透徹しているが死に近く、こういう一事を以てしても、人生はかなり危険なものであることは明らかである。そういう意味では「住まであはれを知らんものかは」と言いたくなる気持ちも分かるのであるが、なにか無責任さを感じるのはわたくしだけではあるまい。

西行がどのような境地に達していたのかは、たぶん和歌では分からない。和歌は論文を書く体力が無くなった研究者の透徹さと似ている。我々はかなり無理して論文書きをやっているので、衰えてくると和歌みたいな透徹さに頼り始めるのである。しかし、それは果たして認識と言えるのであろうか。上の「あはれ」とは一体何なのか?

それはある種の「自由」なのであろう。あはれには、どう生きてもいいのだという倫理的判断が底にある気がする。しかし、我々は強いられる認識が必要であり、倫理は不愉快ななかにある。例えば、これくらい学生に読ませた方がよいのではないかという提案に頑強に反発する学者はいるものであり、彼らは自由を主張しているのだが、――そういう学者は結構早い段階で学生を見捨てる傾向にある。彼らにとっての自由は、他人からの自由一般に拡大されがちなのであった。彼らは案外「あはれ」な気分なのである。のみならず、言うまでも無く他人からの自由が出家という形をとっている場合もあるのではないだろうか。アカデミズムも出家の一種である。

日本近代文学の見出してきたのは、あはれではなく、一種の情操の世界である。大学の中に居ても、その世界に接近は出来るはずである。

三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野の名残を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。

――「千曲川のスケッチ」


「離れて見る」とさりげなく書く藤村は、出家ではなく、一歩下がってみることを発見した。

雪の風景

2021-12-12 23:04:29 | 文学


世を捨てて身は無きものとおもへども 雪の降る日は寒くこそあれ

芭蕉が、このあとに「花のふる日は うかれこそすれ」とくっつけたことが知られているけれども、これはふざけているのではなく、「身は無きものと思っていた」が「寒かった」という、西行のナルシズムか自照かわからないところを、西行の寒がる姿を風景に埋め込むようなかんじ――、雪の降る日の寒さに感情に焦点化させることに成功しているのだと思う。実際、雪の降る日は出家していようといまいと寒いのだ。この寒さは、我々の心とは関係ないのである。寒さをこれでもかと経験した芭蕉であるから、それが分かったのであろうか。

これは伝承された西行の歌なので西行自身の歌かどうかはわからないのであろうが、伝統はこうやって個人が存在していようと居まいとかたちづくられるものである。これは時間の持続としての伝統ではなく、主観的風景なのであり、だからこそそこに時間が発生する。保田與重郎は「日本の橋」とか言って長々と書いたが、もうそのことだけを自覚していた。

何故神の加担する創造を信ずると云へないか。わが心に神の力によつて、民族の過去未来の一切絶対の貫流する雄大な詩人の瞬間を信じ得ないか。

――保田與重郎「文藝時評」

天皇制は、なまじ古事記や日本書紀のおかげでその時間性を失ったところがある。もっとも、その書きぶりにはもう主観的風景こそが伝統を創る事が意識されている節があると思う。だから、あとに続く者が少数派であっても、あいまいな起源をあいまいなまま、風景のまま受け継いでゆく。

そんな風にかんがえてゆくと、独歩や鷗外も日本浪曼派のために存在したかのように思われてくる。

私が長野の町の小さな病院で、熱のある患者の看病をしてゐる時でした。東京へんだと熱のある場合、病人の頭や胴をひやすには、きまつて、氷をつかひますね、ところが、信州では氷の袋はつかひますが、中に入れるのは、氷ではなくて、雪なのです。あの堅いかたい雪なのです。
 一々氷屋をよばなくとも、冬であれば病院の庭にでも、どこの空地にでも、雪のないことは珍らしいからです。
 小さな病院の庭が、この雪を掘る人々で、にぎはふ光景を、私も日にいくどか眺めました。


――津村信夫「雪」


こういう唯物的な風景は浪曼派の風景に対抗できない。

比喩的――檸檬が採れた

2021-12-11 23:41:21 | 文学


その時二人の頭の上に下っている電灯がぱっと点いた。先刻取次に出た書生がそっと室の中へ入って来て、音のしないようにブラインドを卸ろして、また無言のまま出て行った。瓦斯煖炉の色のだんだん濃くなって来るのを、最前から注意して見ていた津田は、黙って書生の後姿を目送した。もう好い加減に話を切り上げて帰らなければならないという気がした。彼は自分の前に置かれた紅茶茶碗の底に冷たく浮いている檸檬の一切を除けるようにしてその余りを残りなく啜った。そうしてそれを相図に、自分の持って来た用事を細君に打ち明けた。用事は固より単簡であった。けれども細君の諾否だけですぐ決定されべき性質のものではなかった。彼の自由に使用したいという一週間前後の時日を、月のどこへ置いていいか、そこは彼女にもまるで解らなかった。

――漱石「明暗」


――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外へ出る。――
 私は変にくすぐったい気持がした。「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」そして私はすたすた出て行った。
 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて来た奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。
 私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」
 そして私は活動写真の看板画が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。


――梶井基次郎「檸檬」


それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

――光太郎「レモン哀歌」

切り分けた果実の片方のように 今でもあなたは私の光

―― 米津玄師


木っ端微塵の基次郎、ただ置いておく光太郎、切り分ける現代の歌手、いちばん檸檬に寄り添っているのは誰なのだ。こうやって見てみると、レモンに何かを喩えて自分を演出している人たちより、普通にレモンを食べ物として扱っている漱石が一番気が狂っている気がする。

時間と言葉

2021-12-10 23:30:39 | 文学


願はくは花のしたにて春死なむ その如月の望月の頃

釈迦入滅の頃に死にたいというのであろうが、もはや西行は現在に向けて表現しているのではない。過去の釈迦に向けてでも未来に向けてでもない。ここでは春と言われているが、時間は止まっている。永遠の今とは、現在に留まることではなく、時間から離脱してしまう事である。

我々は現在に向かってのみ書く必要はない。

今日、ゼミで柳田國男の戦時下の国語教育論を読んでいたが、彼の言っていることは戦時下に対しての認識としては正確ではなく、むしろ80年以上あとに当てはまっている。彼の書いていることは当時の視点にたつと浪漫主義なのだろうが、可能性としてのファクトみたいなものである。彼は、言葉による専制を嫌っていた。国語教育がその専制の原因となっているのは今も昔も問題なのだが、確かに程度の問題はある。しかし、その程度問題に余りに縛られるのはそれこそ言葉の専制なのである。

また、昼休み辺りに、長崎浩氏の「叛乱を解放する」をつい読みふけってしまったが、感想は以下略と言う他はない。学生運動のことを総括する人たちはなにか以下略みたいな感じで文章が終わっていく人が多く、闘争(逃走)続行とも佇立とも立ち往生とも総括へのためらいともいろいろいえるだろうけれども、妙に総括し終わるよりは遙かにましである。学生運動は、永遠の今ではなく、事件性という時間に縛られている。だから、回想するわけにはいかないのだ。誠実であろうとすれば。だから、彼らは以下略のような書き方をせざるを得ない。

カーニバルとか解放区といった時間を超える試みが、全共闘や三島由紀夫が話し合った事でもあったろうが、それが徒労に終わったとしても、――現在のように、計画書のようにリニアな人生はもはや人生ではなく、物質の時間であることを考えると、確かにまずは遙かにましであった。問題は、挫折した彼らが左翼勢力の最も脆弱な部分、物質の時間の維持(=平和主義)に生き方そのものでコミットしてしまった逆説である。彼らが三島由起夫が右翼として現れざるをえないのはそのせいであろう。

まずは必要なのは第一歩であり、言葉の専制からの逃走である。小林秀雄の「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない」(「様々なる意匠」)といった平凡な常識を忘れると、宮★真司の「ケツ舐め」や「うんこがついたケツ舐め」などの罵倒は理解できないが、――認識しすぎると、つまり言葉の魔術に引っかかりすぎると、確かにウンコがカレーに見えることがある。いずれにせよ我々はときどきそういうセンスの狂いを起こすのである。

2021-12-05 23:10:37 | 文学


尋ねつる宿は木の葉に埋もれて けぶりを立つる弘川の里

煙というのは文学の中では重要な形象であって、ほとんど人間の心を映しているようなところがある。雲よりも人為的なそれは、すぐ消えてゆくところからして我々そのもののように思われるのである。

考えてみると、たばこの煙なんかもその一種であったのかもしれない。我々の生活は、ずっと煙と一緒にあったのに、最近はそれがなくなった。なにかそれによって心が欠けている状態になっている気がする。

「そうじゃないの。先に出た煙が、あとからくる煙をまっていて、いっしょに空へ上がろうとすると、いじわるい風が吹いて、みんな、どこへかさらっていくのだよ。だって、同じ木から出た兄弟だろう。かわいそうじゃないか。」と、少年は、いいました。
 お母さんは、しばらく、煙を見ていました。人間にたとえれば、手をとり合って、おぼつかなく、遠い道をいくようです。
「そう考えるのが、正しいのですよ。どこの兄弟も、やさしいお母さんのおなかから生まれて、おなじ乳をのんで、わけへだてなく育てられたのです。それを大きくなってから、すこしの損得で、兄弟げんかをしたり、たがいにゆききしないものがあれば、また中には、大恩のある、母親をきらって、よせつけないものがあるといいますから、世の中は、おそろしいところですね。」と、なにか深く感じて、こういった、お母さんの目には、光るものがありました。このとき、
「ぼくは、そんな人間に、ならないよ。」と、少年はお母さんのひざに、とびつきました。


――小川未明「煙と兄弟」


これは心ではなく観念にまでなった煙である。歌僧として生きた西行であろうが、観念との我々の繋がりは、西行の考えていた世界から遠いところで人間を縛るものであった。ゴジラなんか水爆という観念であるにもかかわらず、あれは形象としては煙なのである。もはや、あれを人の心だと思う人はあまりいないだろう。

否定の歌

2021-12-04 23:57:22 | 文学


にほてるや凪ぎたる朝に見わたせば こぎ行く跡の浪だにもなし

沙弥満誓の「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ 漕ぎ行く舟の跡の白波」を本歌とするようである。この歌で恵心僧都が、「和歌は観念の助縁」になると悟ったらしいのだが、どうしてそう思ったのか私にはよく分からない。むしろ西行の歌の方が分かる気がする。むろん、沙弥満誓の歌に続くことでなにか「観念」を感じさせることが可能なのである。西行の功績は、彼が歌僧であることそのものにではなく、歌の世界を仏の世界に置き換えるには何が必要か考えたことにあったのかもしれない。仏の世界は、あちらにはなくこちら側そのものであるとしても、そう我々が観念することは難しい。社会科学でも哲学でもおなじことでそれはいつも難しいのである。西行が沙弥満誓に対しておこなったことは、マルクスが近代経済学に対して行ったことに近いかも知れない。上の歌のように「なし」という否定の歌によって存在させられるものがある。

夜の十二時にもならなければなかなか陸風がそよぎはじめない。室内の燈火が庭樹の打水の余瀝に映っているのが少しも動かない。そういう晩には空の星の光までじっとして瞬きをしないような気がする。そうして庭の樹立の上に聳えた旧城の一角に測候所の赤い信号燈が見えると、それで故郷の夏の夕凪の詩が完成するのである。
 そういう晩によく遠い沖の海鳴りを聞いた。海抜二百メートルくらいの山脈をへだてて三里もさきの海浜を轟かす土用波の音が山を越えて響いてくるのである。その重苦しい何かしら凶事を予感させるような単調な音も、夕凪の夜の詩には割愛し難い象徴的景物である。


――寺田寅彦「夕凪と夕風」


これをみると、科学的視点というのものは、否定がない否定だという気がする。いまでもおなじである。否定を媒介しないコミュニケーションは、人間の見る世界を変えることなく、ただ「凶事を予感させる」ぐらいの感覚を増幅させながら、主体をじわじわ否定してゆく。風景が物質で占領されると、我々の肉体も占領されるのである。 

富士の高嶺に我が思い

2021-12-02 23:06:57 | 文学


風になびく富士の煙の空に消えて ゆくへもしらぬわが思ひかな

恋の歌でもなんでもいいが、我が思いというのは、行方が知れないものであろうか。いや、確かにそうなのである。それは、富士の煙が消えてからどこに行くのか分からぬのと同じく、思いというものは見えるものではないし、それゆえ行方もわからないものである。しかし必ず存在しており、だから行方知れずの恐ろしさがあるのであった。

富士を、白扇さかしまなど形容して、まるでお座敷芸にまるめてしまっているのが、不服なのである。富士は、熔岩の山である。あかつきの富士を見るがいい。こぶだらけの山肌が朝日を受けて、あかがね色に光っている。私は、かえって、そのような富士の姿に、崇高を覚え、天下第一を感ずる。茶店で羊羹食いながら、白扇さかしまなど、気の毒に思うのである。

――太宰治「富士に就いて」


西行に比べると、太宰はこの前の所で「風呂屋のペンキ画」か書き割りか、とかケナしているくせに、富士そのものに拘って居る。これでは、原節子が出ていた同時代のナチス=日帝のプロパンガンダとあまり変わらないではないか。