本日は広い墓地を訪れ、横浜の中心街を見渡しながら歩いた。以下、まとまりのない感想。
お墓というのは、現代では自分の住んでいる近くにある人は少ない。生家から遠くに住んでいる人も多いし、そもそも現代では「〇〇家の墓」という「大家族」は崩壊している。
近くの寺に檀家として墓を維持している人もごく少数である。墓が欲しくとも公営墓地に抽選で当たる確立は極めて低く、たまたま手に入れても墓を立てる資力を持つ人は限られている。寺院の経営する狭い墓も手に入りにくいし、高価である。
私などは父親が偶然とも言える経緯で多磨霊園にそれなりの墓を手に入れて、墓自体をそこに移してくれた。
現代の墓事情について述べれば、「家」制度に言及する一文が出来上がりそうだが、それはこの文章の目的ではない。
もともと墓、墓石というのは故人を偲ぶ縁(よすが)である。墓がなくとも亡くなった身近な家族を思い出す縁があれば事足りる。しかしそれでは何となく気持ちが落ち着かないという人もいる。このことは私は否定できない。多少の時間をかけてもお墓に出向いて、花を供え、しきたりや風習にしたがい故人を偲ぶ、という行為は人類の原初からの行為であったらしい。人類だけでなく、弔いをする動物は多いという。カラスも仲間の骸の周囲で啼き声をあげて弔う。それを「弔い」といえるかどうかは議論はあるかもしれないが、少なくとも喪失感の共有という行為ではあるだろう。
本日も幾人かが、墓を掃除し、花を供えてお参りをしていた。一組の男女は黒い服装であったので、一周忌くらいのお祀りだったかもしれない。
墓地というのは、静かな散歩に向いている。すれ違う人も他の墓に参る人には無関心であり、静かに歩んでいる。自分の心の内で対話をしながらの散歩をするにはいい場所である。時には墓誌に視線を向け、墓誌を記した人の思いや、「戒名」なる不思議な風習の字に込められた意味を探ったりするのも頭の刺激になる。
墓というのは、意外と刺激のある散歩ができる場所でもある。