Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の読書

2011年02月12日 15時21分01秒 | 読書
「親鸞を読む」(山折哲雄、岩波新書)
「親鸞はそろそろ、イデオロギーの呪縛から解放されてもいい時期に来ているのではないであろうか。かれはこれまで、あまりにも近代主義的なイデオロギーの網の目にからめとられてきたと思う。親鸞の思想は、雑行か正行か、現世利益か浄土往生か、そして自力か他力か、といった抜き差しならぬ論理のラジカリズムによって、身動きできない硬直の中に押し込められてきたのである。
 しかしながら『教行信証』という作品の深層には、そのような親鸞解釈の定石を一挙にくつがえしかねないマグマのような内容が当初からはらまれていたのではないであろうか。」
 「『歎異抄』は過激な文章である。鋭い警世と批評の書である。それにふれる者の心を焼きつくし、それに近づく者を震撼させずにはおかない危険な言葉にみちみちている。それでもなお、ときに毒をさえ含むその言葉の一つひとつに、人間の怖ろしい真実を見出そうとする者がたえなかった。そこから発散される逆説の魅力に引きずりこまれていったので
 「親鸞はその『教行信証』のなかで、いったい何を主張しようとしたのだろうか。そこに凝縮されている主題は何か。枝葉を切りはらって結論をいってみよう。この作品に展開されている重大なテーマはただ一つ、父殺しの罪を犯した悪人ははたして宗教的に救われるのか、という問題だった。」
 「『歎異抄で説かれている論旨は、悪人正機論であれ、善悪=宿業論であれ、われわれ人間にはそもそも悪(=殺人)を犯す可能性があるという議論だった。いつでもそうなりうる可能性における悪であり、可能態におれる悪人の問題だったといってよい。ところがこれにたいして『教行信証』で展開されている逆害論は、アジャセという父殺しの悪が主題とされている。黄がついたとき、すでに殺人を実現してしまっていた人間の悪の問題である。可能性における悪の問題とは決定的に異なる状況といわなければならないのだ。
 そして、この父殺しという逆害をすでに実現してしまった人間の罪が償われるためには、「善智識」と「懺悔」の二条件が必須であると親鸞はいったのである。悪人アジャセが阿弥陀如来の慈悲によって救われるためには、それが絶対に欠かせないといって二つの条件をさしだしたのである。
 「可能性における悪のみを問題にしている『歎異抄』は、罪の大転換のために必要とされた「善智識」と「懺悔」の問題に、一言半句ふれてはいないのである。気がついたとき殺人の罪を犯してしまっていた人間の戦慄の感覚が、そこではまったく欠けているからだ。」

 山折哲雄氏は教行信証と歎異抄の関係をこのように理解した。私は教行信証を読み通すだけの力量は残念ながらない。いくど挫折をくりかえしたことか。しかしながら私もいつかは教行信証に挑戦したくなった。