「歎異抄」(講談社学術文庫)
「親鸞をよむ」(山折哲雄)に刺激を受けて久しぶりに歎異抄を再読した。岩波文庫版ではなく今回は講談社学術文庫版(梅原猛全訳注)
今回は原文と和訳を交互に読み、注・補注は省略。
「第六条 一。専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふろう。」
今回はこれが心に残った。人間である以上集団、組織をつくりそれに組み込まれることは否定しないが、どうも群れたがる人というのは、異常に派閥を作りたがる。排除の論理を振り回したがる。自分で考えない人ほどそうだ。指導-被指導、組織責任‥。人は常に、自分がどんなに尊大に見えてしまうか、一歩下がって反省しながら組織の中の自分の位置を見定める必要がある。
解説で梅原猛は
「「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、法然の語った言葉と解せられるが、法然は思想において悪人成仏の思想まで進んでいたが、実際の生活において彼は‥有徳な聖僧であった。‥法然はこの学説と生活との矛盾に深い悩みを感じていたであろう。彼はいってみれば愚者をあこがれる賢者であり、悪人にあこがれる善人であったのである。しかしその弟子親鸞は、その矛盾を実践において解決しようとする。彼自身が悪人に、肉食妻帯の僧になろうとするのである。」
「『歎異抄』は、異常な魅力を持った本である。‥この本には一読して人の心を奪わずにはいられない魔力のようなものが備わっているのであろう。」
「親鸞が書いたものには、‥何かひどく判りにくさが存在している。彼の文章はほとんど論理性を無視したような文章であるようにすら見える。何か得体の知れない暗いものが、彼の心に重く澱んでいて、‥何か果てしのない暗さの中にひたされるいるような感じがする。しかし『歎異抄』の文章は違う。それははなはだ明快で論理的な文章である。親鸞自身の文章に、重さと深さにおいて劣るとはいえ、簡潔さと明快さにおいてまさっている。おそらくそのような違いの中に唯円の個性があらわれている。」
「宗教を学問や道徳と連続して考えようとする思想の批判なのである。深い罪業の自覚の中に、限りない阿弥陀の光が訪れる。この苦悩と、この喜びなしに何の宗教があろうかと唯焔はいいたいのであろう。」
「唯円の頭にあったのは、厚い信仰に結ばれた信仰共同体の思想である。学問もなく、地位もなく、貧しくとも、真の信仰に結ばれた人々からなるもの、ここに親鸞の振興は永遠に生きていると唯円は考える。そして、このために『歎異抄』は書かれた。唯円の頭の中には、内村鑑三が理想としたような無教会主義の理想があったと思われるが、その理想は唯円のものであるより以上に親鸞の理想であったように思われる。」
と記述している。
飛躍と断定が多い解説ではあるが、それはよしとしよう。私が偉そうに付け加えるものはない。あえて言えば、政治の世界や組織の上に立つ人に真摯に読んでもらいたいと思う。
歎異抄のように心を動かされた文章は、そのときの心の持ちようを忘れてはならないと思う。固定して捉えてしまうと、読みを浅くしてしまう。
「親鸞をよむ」(山折哲雄)に刺激を受けて久しぶりに歎異抄を再読した。岩波文庫版ではなく今回は講談社学術文庫版(梅原猛全訳注)
今回は原文と和訳を交互に読み、注・補注は省略。
「第六条 一。専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子といふ相論のさふらうらんこと、もてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずさふろう。」
今回はこれが心に残った。人間である以上集団、組織をつくりそれに組み込まれることは否定しないが、どうも群れたがる人というのは、異常に派閥を作りたがる。排除の論理を振り回したがる。自分で考えない人ほどそうだ。指導-被指導、組織責任‥。人は常に、自分がどんなに尊大に見えてしまうか、一歩下がって反省しながら組織の中の自分の位置を見定める必要がある。
解説で梅原猛は
「「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という言葉は、法然の語った言葉と解せられるが、法然は思想において悪人成仏の思想まで進んでいたが、実際の生活において彼は‥有徳な聖僧であった。‥法然はこの学説と生活との矛盾に深い悩みを感じていたであろう。彼はいってみれば愚者をあこがれる賢者であり、悪人にあこがれる善人であったのである。しかしその弟子親鸞は、その矛盾を実践において解決しようとする。彼自身が悪人に、肉食妻帯の僧になろうとするのである。」
「『歎異抄』は、異常な魅力を持った本である。‥この本には一読して人の心を奪わずにはいられない魔力のようなものが備わっているのであろう。」
「親鸞が書いたものには、‥何かひどく判りにくさが存在している。彼の文章はほとんど論理性を無視したような文章であるようにすら見える。何か得体の知れない暗いものが、彼の心に重く澱んでいて、‥何か果てしのない暗さの中にひたされるいるような感じがする。しかし『歎異抄』の文章は違う。それははなはだ明快で論理的な文章である。親鸞自身の文章に、重さと深さにおいて劣るとはいえ、簡潔さと明快さにおいてまさっている。おそらくそのような違いの中に唯円の個性があらわれている。」
「宗教を学問や道徳と連続して考えようとする思想の批判なのである。深い罪業の自覚の中に、限りない阿弥陀の光が訪れる。この苦悩と、この喜びなしに何の宗教があろうかと唯焔はいいたいのであろう。」
「唯円の頭にあったのは、厚い信仰に結ばれた信仰共同体の思想である。学問もなく、地位もなく、貧しくとも、真の信仰に結ばれた人々からなるもの、ここに親鸞の振興は永遠に生きていると唯円は考える。そして、このために『歎異抄』は書かれた。唯円の頭の中には、内村鑑三が理想としたような無教会主義の理想があったと思われるが、その理想は唯円のものであるより以上に親鸞の理想であったように思われる。」
と記述している。
飛躍と断定が多い解説ではあるが、それはよしとしよう。私が偉そうに付け加えるものはない。あえて言えば、政治の世界や組織の上に立つ人に真摯に読んでもらいたいと思う。
歎異抄のように心を動かされた文章は、そのときの心の持ちようを忘れてはならないと思う。固定して捉えてしまうと、読みを浅くしてしまう。