Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

昨日は墓参り

2011年10月02日 19時58分40秒 | 読書
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 昨日は多磨霊園まで墓参り。彼岸花が咲き、金木犀が咲きにおう霊園の中をのんびり歩いてきた。私は霊園、お墓をながめながら歩くのが好きだ。似たような墓石が並ぶ中、個性さまざまな墓も数多く点在する。眠る人、祀る人のそれぞれの個性が出ていて、見飽きることがない。
 多磨霊園は広大である。いつ行っても四季折々の風情があり、新しい発見がある。

昨日の読了
「俳句の世界-発生から現代まで-」(小西甚一、講談社学術文庫)
「「かるみ」とは、真の意味での「流行」に根ざすものであり、従来の在りかたに安住しきれず、いつも前にひとあし踏み出してゆくことであった。それは、作者としての「態度」であり、その態度から生まれる表現のありさまが「作調」となる。態度と作調(トーン)とは、原因と結果との関係に当たる。閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」であり、繊細な感覚で鋭く穿ち入る態度から生まれる作調が「ほそみ」であり、情感と従順に融けあってゆく態度から生まれる作調が「しほり」であった。しかし、態度としての「かるみ」は、ひとつの境地に足を留めないことだから、特定の作調になることはない。‥態度「かるみ」に対応する作調は、けっして特定のものではない。」
「子規は、小主観のなかにあそぶ月並的表現を破るため、客観的な写実精神を強調し、その写実精神を作品化したものとして画人蕪村の俳諧を発見したのである。しかし、この点には指揮の誤解があった。蕪村の俳諧は、決して写実精神から生まれたものではない。写実精神は、明治初期におけるひとつの共通的傾向であった。日本の近代化における根本的な態度から来たものである。文芸においては、19世紀後半がリアリズムの興隆期だったので、何はさておき、それにとびついた。‥この俳句革新が、明治的な写実精神を示すひとつの指標であることは確かだが、その実践むけ手本を蕪村に求めたのは、当時として止むをえぬことながら、残念な誤解であった。‥子規の革新運動を写実精神の新興からのみ論じたがる。私は、それよりも、かれが「俳句は文芸なり」と提唱したことをずっと重視したい。‥子規による俳句革新の中心点は、まったく文芸への質的転換に存するといってよろしい。」