Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

読みたい本は限りなくある‥

2017年05月04日 23時44分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日も特に予定は無く休養日。特に仕上げなくてはいけない仕事もないので、読書タイムを確保したいものである。
 読みたい本はたくさんある。読みかけの本もたくさんある。読まなくてはいけない本もたくさんある。読んでもなかなか理解できない本もたくさんある。読んでみてからつまらないことがわかる本もたくさんある。読んでみて思いがゲなくいい刺激を受ける本もたくさんある。
 このごろは目がとても疲れやすいので、続けて読める時間が短くなっている。集中力がこれまで以上に要求される。
 本の選択が大切になっている。読むことのできる本はごく限られたものになったことをしみじみと実感する年齢になった。
 こんなことを考え始めると、気分は下向き。精神衛生上よくない。
 さっさと気分を転換しなくてはいけない。こういう場合は寝るのが一番。

謡曲「定家」

2017年05月04日 22時47分08秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ふと謡曲の「定家」を思い出した。特に根拠はないのだが‥。あらすじは次のようなもの。

 北国から京へ着いた旅の僧が、都千本辺りでにわかに時雨に遭う。雨宿りをしていると一人の若い女があらわれ、「ここは歌人藤原定家が建てた時雨の亭(ちん)である」と僧に教える。女は定家の歌を詠み、僧を式子内親王の墓に案内する。
賀茂の斎院だった内親王は、定家と人目を忍ぶ深い契りを結ぶが、
世の知られることとなり、逢うことが出来なくなったまま亡くなる。それ以来定家の執心が、葛となって内親王の墓にまとわりつき、内親王の魂もまた絡まれてしまったと女は僧に語り、自分こそが式子内親王であることを告げる。そしてこの苦から救ってほしいと僧に告げ失せる。
その夜、僧が読経して弔うと、内親王の霊が墓の中から現れ、法の力によって苦が和らいだことを伝え、報恩のためと舞を舞う。やがてもとの墓の中にもどるのだが、再び定家葛にまといつかれて姿を消す。


 私がはるか昔、初めて謡曲に目をとおしたのが、金春禅竹作といわれる「定家」(清朝日本古典集成)である。以来横浜能楽堂をはじめ幾度か能を見る機会があったが、残念ながらこの「定家」はまだ演目として鑑賞したことがない。
 式子(しょくし/しきし)内親王と定家の関係はあくまでも伝説上の話であって、史実ではないがそれでもかなり早い時期からこれは伝説として成立していたらしい。
 謡曲「定家」と当然にも式子内親王の「玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば忍ぶることの弱りもぞする」を下敷きにしている。
 私はこの謡曲に出てくる「執着」そのものに惹かれる。読経の功徳で地獄の責苦から一刻逃れても、その執着にすぐにまた「定家葛」にまといつかれ、式子内親王は成仏することはない。読経の功徳であっても解放されることはないという、「蛇淫の妄執」からの解脱の難しさを表現している。
 現代に生きる私などは、墓に絡んでいるのは定家の妄執の比喩なのだから、シテとして登場するのは式子内親王の精ではなく、定家の精でなければならないのではないか、あるいは女性は成仏できないという女性蔑視だ、と頭を過るのだが、それはそれとして、私は結末がとても気に入っている。

 露と消えても つたなや蔦の葉の かづらぎの神姿 恥づかしやよしなや 夜の契りの 夢の中にと ありつる所 かへるは葛の葉の もとのごとく 這ひ纏はるや 定家葛 這ひ纏はるや 定家葛の はかなくも 形は埋づもれて 失せにけり
(はかなく露と消えた後も 見苦しいこと 蔦葛に巻きつかれた かの葛城の神のような姿 恥ずかしいこと つまらないこと 夜の間の夢の中でお目にかかるだけである と言って 墓石の所に帰ってゆくと もとのように 這いまつわるのは 定家葛の葉であって はなないことにも 墓石の形は埋もれて見えなくなってしまった)

 どこか、現代的な脚本にでもありそうな結末に思える。三島由紀夫に「近代能楽集」という謡曲に素材を得た短編集がある。「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」「道成寺」「熊野(ゆや)」「弱法師(よろぼし)」の8曲がおさめられている。「定家」を三島ならどのように再構成したのであろうか、と考えたりもした。三島にとっては惹かれるもののなかった曲だったのだろう。そこら辺の理由は思い浮かべることが出来ない。
 しかし私にとっては最初に目にした謡曲ということで、今でも時々思い出すことがある。

部屋の中より外があたたかい

2017年05月04日 18時13分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 春の終りから5月頃というのは、外の陽気は暖かいのだが、部屋の中は意外と寒く感じる。本日も昼から買い物や所用があり、妻に付き添って外出したところ、部屋の中の感じから長袖とメッシュのベストで外に出たら、暑く感じた。陽射しが思ったよりも強い。半袖のシャツが相応しかった。
 昨日は有明臨海防災公園での集会とデモで、正午前から17時まで外にいた。15時過ぎからは雲に覆われて風が冷たかったものの、集会場では腕は日焼けになるほど暖かであった。半袖のシャツを着てちょうどよかった。
 17時半から大井町駅で降りて、居酒屋でワイワイ。横浜駅に戻ったのが20時。本日はお疲れ休みと休肝日。妻との外出から戻って30分ほど一寝入りさせてもらった。

 昨日退職者会ニュースの校正刷りを三役とチェックしているうちに、少々表現を変えるたほうが良い箇所と、追加記事が出てきて、これから急ぎ手直ししなくてはいけなくなった。6日(土)に出勤される印刷会社の担当者には迷惑をかけてしまうことになってしまった。本日中に訂正版を送信してしまいたい。
 新しい記事を一面に押し込むことになったので、一面はギュウギュウ、二面はゆとりのある画面構成となってしまった。少しアンバランスだが、やむを得ない。


板倉鼎・須美子展(目黒区美術館) -2-

2017年05月04日 11時37分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 板倉鼎の妹の板倉弘子による「板倉鼎-その藝術と生涯」におさめられている人物像の作品のいくつかを年代順に並べてみた。

            

 パリに行く前の美術学校を卒業前後の作品がある。当時の美術学校や岡田三郎助の指導、あるいは入選したという帝展の水準がどのようなものなのかは私にはわからないが、もうこの時期には板倉鼎は繰返しによる停滞の様相に思える。
 渡欧後は直ちに画風が一変する。この変化を1926年ハワイ経由でパリに到着してからの変遷を見るのはなかなか刺激的である。
 誰の影響かなど想像もまた楽しい。須美子夫人をモデルとしたさまざまなヴァリエーションは当然ながら画家の工夫の痕でもある。
 なくなる1929年の作品よりも1928年の試みのほうが私にはいいように思える。特に「黒椅子による女」と「画家の像(パレットを持てる女)」(松戸市教育委員会蔵)に惹かれた。

      

 1929年の作品では赤衣(松戸市教育委員会蔵)に惹かれた。
 色彩の効果と構図の関係など興味深い。しかしこの1929年の人物像はどのように変化しようとしていたのか、気になるところである。
 風景画・静物画もまた惹かれるものがあった。特に金魚とテーブルの連作も気になった。

 新婚の生活、子どもの誕生と次女の死などさまざまな出来事があったようだが、夫人をモデルにしているほかは、私が見た限りではそれらは作品や思想におおきな影響があったとは思われない。生活的にはそれほどの困窮ではなかったようでもある。
 作品の変遷に、日本とヨーロッパとの落差に戸惑ったり、摩擦が大きかったような痕跡は買感じられなかった。昭和の初めともなると明治の時代の留学とは違った様相を示し始めていたのだろうか。個人的な資質の問題や家庭環境によるものと理解してしまっていいのだろうか。いろいろと考えさせられる。