黒井千次の「老いの深み」を読んでいて、不思議でもあり、「そうだな」と同意する視点でもある箇所に出会った。「遠景への関心を忘れず」という題がついている。
欅の巨樹に夕刻に群れる小鳥の大群の描写と、電線に止まる鳥の並び方の決まりを類推する描写があり、次のように結んでいる。
「(鳥の並び方は)いわば遠景の中での出来事であり、近景とは切り離された外界の事情で動くものである・・。離れた光景は見るのが面倒で近づきたくないから、その眼を自分のすぐ足もとの衣類や紙屑籠などに向けてしまうのではあるまいか。この面倒臭さ、対象との距離の遠近の感覚が、遠景を遠ざけ、近景ばかりでことをすませようとしているのではないか――。近くの自分が見えなくなるのは困るけれど、しかし遠くの自分が見えなくなるのもまた困る。遠景の中の自分はどこに居て何をしているのか――。せめてその関心くらいはどこかにそっと育てていたい。」
引用の後半部分が何とも不思議な視点である。「外界の事情で動く」「遠景の中の自分」とは何を指しているのか、ふとわからなくなりながら、惹かれた箇所である。遠景・近景の距離を、自己と社会との距離感に置き換えてみてもいいだろう。「遠景」に社会との葛藤にもがく自己を投影すれば良い。
年齢とともに人の関心は、内向きになりがちである。他からの強い働きかけがないと、社会に対して視線は向けられなくなる。
私は「そっと育てていく」のではなく、「人との交わりを通して、身の動く限り、近景に目配りしつつ、遠景の中でもおおいに泳ぎ続けたい」と思っている。もがき続ければ、身が動かなくなっても、見続けることはできる。
私は欲張りすぎるのであろうか。
遠くを見過ぎて遠視になり、近くにばかり目を奪われて近視になり、今は、白内障・緑内障、斜位と視力崩壊。
スフィンクスのなぞかけのように、視力も、ものの見方も、身体に合わせて変化のようです。