午前中の講座終了後に新国立美術館で「ミュシャ展」を見てきた。横浜駅前のチケットショップで100円安い1500円で入場券を購入。たかだか100円であるが、新国立美術館でチケットを購入するために10分以上並ぶことを考えると、とても得した気分になる。実は一軒目は売り切れといわれ、二軒目で購入できた。
開場はチケット売り場は並んでいて、10分以上と小耳にはさんだ。草間彌生展と同じ窓口で販売していたようだ。並んでいるのは草間彌生展のチケット購入者のほうが多かったと思われる。草間彌生展の会場は入場待ちで並んでいた。ミュシャ展のほうは待たずに入場できた。
本日は、作品の感想を述べるにはまだ頭の中の整理は無理なので、外堀から‥。
作品があまりに大きく、新国立美術館の添乗でも高さがギリギリにおさまっており、作品は人の膝くらいから天井まで目一杯。作品と作品の間が狭く、鑑賞スペースが限られているため、遠くから全体を見ようとすると、後ろの作品を遠くから眺めようとする人と見つめ合う羽目に‥。そして下部は人の姿が目に入ってしまい、近くに寄らないと見ることが出来ない。
これは会場の不備ではなく、作品の大きさ故の致し方ない状況であると思う。また上部は遠くて視力に難のある私は、双眼鏡ないしオペラグラス必携であった。これは迂闊。残念ながら上部を見ることは私には無理であった。これから訪れるかたは双眼鏡ないしオペラグラス持参をお勧めする。
そしてスラブ叙事詩の第15、第17~20を展示しているコーナーが撮影可能エリアとなっている。スマホ・携帯電話の撮影音がやたらと鳴り響き、カメラへおさまる範囲を探して、カメラを見ながら移動する人が多く、鑑賞者にぶつかって来るので、落ち着いて見学ができない。これは考えものである。この「撮影可能エリア」なるものの在り方には苦言を呈したい。
ショップはいつものとおりごった返していた。多くの人が関連グッズや図録、ポストカードの前に並んでいた。私はスラブ叙事詩20作品のポストカードを各1枚購入した。あの巨大な作品の迫力には到底及ばないが、やはり全部そろっていたことは良かったと思う。
混雑はしていたが、見て回ることができるギリギリの混雑度であったと思う。私は図録を横浜の書店で事前に入手していたので、スラヴ叙事詩20作品の解説和事前に読むことが出来た。20作品分の情報を覚えることは出来ないので、縮小コピーをしてそれを読みながら作品の前に立ったが、こういう感想ははやりよくないと思った。作品を前にしたら字面を追う時間があったら、分からずと作品を隅々までじっくり見ることのほうが大切だとあらためて感じた。
さて、少しだけ本題に触れてみる。
淡い色彩が、この大作の場合、白を有効に際立たせるにはとても有効な方法だったのではないかと思い至った。それは敬虔で平和主義者としてのミュシャの想いと繋がっているのかと思った。激しい戦闘場面は避けているが、白兵戦直後の死体の累々とした場面や、祈りの場の描写等々にこの白色が作品の価値を高めているように感じる。そして多くの作品に登場する、鑑賞者を見つめる民衆を代弁するような人の鋭い眼を際立たせてもいる。
印刷した図録では味わえない効果だったと感じた。
また、遠距離からの鑑賞にはつらいものがあるかもしれないが、抑制された描写に惹きつけられる白色の効果、といったものがあるのではないか。私の目には好ましいものと映った。
等身大の人物ということにミュシャはこだわったのではないだろうか。画面手前に位置するように描かれた諸人物と鑑賞者はとても近い距離に見える。作品に描かれた群衆の中にスッと入ってしまう感覚にも襲われた。人物を等身大とすることで作品があのように巨大化したと考えると、頷けるような気がした。