「老いの深み」(黒井千次)のⅢ「危ない近道の誘惑」の12編を読み終えた。今回目を通したいづれも自分としては、なるほど、と素直に理解できた。
「テレビのコマーシャル画面における階段を昇る人の軽快な動きの美しさ、好ましさは否定しようがないけれど、しかし一方、それが実現しているのは、老いの果実が身の内に稔ろうとする動きを拒み、遠ざけようとした結果ではないのか、と考えてみたい誘惑を覚えずにいられない。・・・マケオシミついでにいえばその場合に一つだけはっきりしているのは、〈老い〉の中らに〈若さ〉は拒まれていることだろう。」(「若さを失って得られる〈老いの果実〉」から)
「健康食品」や「機能性表示食品」なるもののコマーシャルの効能の嘘やトンでも論理については、近いうちにこのブログにも記載したいと思っていたが、こういう視点もなかなか面白い。
私はこの文章の程度に「負け惜しみ」をいう筆の運びが気に入っている。コマーシャルのあの過剰な〈若さ〉の強調にはいつもうんざりしている。〈若さ〉ばかりが価値ではないという視点でものごとも考えてみるのもいいのではないか。私はそのほうが、それこそコマーシャルとして成功するようにすら思っている。
「〈若さ〉や体力を失ったかわりに、〈老い〉の細道を辿ったからこそ見えてくるものがありそうな気がする。背筋を伸ばして階段を昇ることは難しくとも、足もとの地面にしゃがみこんであたりを観察する機会が生まれるかもしれぬ。・・〈若さ〉の速度や視覚が見落としているものの姿が、まざまざと目に映るということがあっても、不思議はないだろう。貯えられた〈知〉が〈老い〉を豊かなものに変えていく可能性は十分にある。」(同)
こういう視点の変容を私はいつも気にかけていたい。そんなことが少しでも匂わせるものをこのブログにも記載したいものである。
そして、老人ではなくとも、世の中を見上げる視点、通り過ぎていく若い人たちの足もとから空を見上げる視点は魅力のあるものの見方につながります。
物理的に、公園のベンチや縁石に座り込んで、見上げてみたいですね。ビールを片手にしているのもいいな。