ようやく謡曲「海士(あま)」を読み終えた気分になった。字面だけは5回ほど読んだものの、どうしても飲み込めないものがある。
謡曲というのは、今の感覚で、芝居の台本や小説を読むように字面を追っても理解できないところがある。現代人の感覚で、時間軸や物語の展開の整合性を追っていくと、落とし穴のようなところにすっぽりと落ちこんで、わからなくなってしまう。
時間の流れと物語の流れは、整合性が取れていて、因果関係・起承転結のポイントごとにキチンと表現される。それを見落とすことは「読者」として読みが足りないのである。読み手に責任がある。
しかし謡曲では、このポイントは特に重要ではない。過去と現在、現実と幻想、人物と霊や魂、理想と現実が相互に浸潤し合う。自由に行き来する。
その不思議な相互の浸潤の中で、物語の核心、教訓なり主調音が浮き出てくること、あるいは演じる側がそれらを滲みださせることが大切なのだろうと思う。
この「海士」でも、シテの海士が13年前の海士の振舞いを物語り、演じているうちに、いつの間にか、子方の房前の母親の霊となり、子方にその名乗りをして、波間に消える。この展開を字面を追っているだけでは、いつ現在の目の前にいる海士が、過去の海士に振り替わったのかはわからない。行間から類推するとかない。
この名乗りは本当に唐突である。海士が瀕死の状況で体内に隠した玉を取り出だしたのち、突如としてこれまでのシテが「これこそおん身の母、海士人の幽霊よ」とのみ表現し、地唄にバトンを渡して退場する。
このわずかな一行が私の頭の中で消化不良を起こして、母の名乗り、というポイントがなかなか理解できなかった。アイの語りの後、後ジテ(房前の母、実は龍女)が登場して舞うのであるが、まずこの房前の母=龍女という図式がすぐには理解が出来ない。房前の母の霊と龍女が結びつかないのだ。
さらに現代の感覚からは二つのわからなさがある。ひとつは不比等が明珠(メイシュ)を求めてこの志度の浦まで来たにもかかわらず、海士と契りを交わし房前という子をもうけ、その海士に明珠を取り返してもらう、という長い時間の流れもまた理解を阻む。現代人にしてみれば悠長ともいえる長い時間が、物語の流れと一致しないと感じてしまう。
そして子を産み、明珠を取り戻した海士にも関わらず、不比等はその顕彰もせずに都に引き上げてしまう。いくら身分が低いからといって、古代の世界だからといって「これはないだろう」というのが現代人の感覚である。
謡曲という世界から離れていると、この現代の時間の流れ、物語のためのポイント、古代の世界の価値観は忘れてしまう。謡曲を読むときはこの感覚を呼び戻さないと、字面だけを追っては物語の展開が理解できない。
私も迂闊であった。普段の感覚のまま、すぐに理解できると思って安易に足を踏み入れで、迷い込んでしまった。
この「海士」は結構複雑な物語と、海中で明珠を得るためのシテの舞など見どころがいっぱいあり、躍動感溢れる演目のようである。母性という観点からの鑑賞もある。シテの不思議な変容の演じかたに着目する鑑賞もある。動きのある能というのもまた見どころであろう。魅力ある難しい演目のような気がする。紹介してくれたブログ「
言葉の泉」の管理人様に感謝したい。
しかしこの違和感を何とか克服しようとする時間は、またとても楽しくもあった。久しぶりに謡曲の世界を味わった。いつかまた能を鑑賞しに行きたいものである。その時は事前に十分演目を理解できるように、能の世界を復習してからにしたいものである。