この著作、なかなか濃密で優れた文章である。連作の短編小説を読んでいる気分になる。写真家の文章として読むよりも、私は優れた小説家の小説の世界を逍遥しているような心地よさがある。
「犬の記憶」15編のうち、「もう一つの国」までの6編を読み終わった。少し長すぎるが結果的には小説的ではない部分を引用してみた。
「生まれ落ちた、というだけではなく、まして親しんだというわけでもない。面影などといってみたところで所詮幻影である。‥幻影に心情を寄せることは詮ないし、幻影に向けてシャッターを切ることもできない。過去を現在に、現在を過去に重ね合わせて見ることが記憶を検証することではない。もとより記憶とは、自身の内部に懐かしく立ち現れる。かく在りきイメージの再現行為などではなく、現在を分水嶺として、はるか前後へと連なっていく大いなる時間に向けて、したたかにかかわって心の領域のことだと思うからである。」(陽の当たる場所)
「少年期に通り過ぎたいくつかの街の雑踏と、そこに漂っていた匂いとの出会いの記憶から僕の戦後体験は始まっているからだ。その時期はおよそ昭和二十七、八年ぐらいまでに当たり、そのころで僕の少年時代も終わっている。‥現在、ときに気弱になってしまったときに、めくるめく思い出として、そこに生きて在った人々も風景も、なにもかもが輝いた輪郭を持っていたかのように僕の目に映るあの戦後の記憶が、一種逃避的なノスタルジーとなって懐かしく錯覚されてくるのだろう。しかし実際のところ、あのころが僕にとって、飛び帰りたいほど甘美な日々であったという記憶など何ひとつあったわけではなく、むしろ両親の世代の人たちにとっては二度と在ってほしくない時代であったことは想像にかたくない。‥本当はカメラを手に、実際に立ち会ってみたかった唯一の地点(時代)でもあった。」(壊死した時間)
「国道を疾駆していると、一瞬の出会いののちにはるか後方に飛びすさっていくすぺてのものに、とりかえしのつかない愛着を覚えていいしれぬ苛立ちにとりつかれてしまうことがしばしばだった。ことに夕暮れどき、フロントガラスの片隅をかすめてつとに街角に消えていった女の仄白い横顔や、白昼、畑のなかに立ちつくす少年のなまざしなどは、いつか見たスクリーンの映像に似ていつまでもなまなましく目に焼きついている。垣間見、無限に擦過していくそれら愛しいものすべてを僕はせめてフィルムに所有したいと願っているのに、欲しいもののほとんどはいくら撮っても網の目から抜けこぼれる水のようにつぎつぎと流れ去ってしまって、手元にはいつも頼りなく捉えどころのないイメージの破片のみが、残像とも潜像ともつかない幾層もの層をなして僕の心の中に沈み込む。」(路上にて)
「その夜('68/10/21国際反戦デー)新宿の町は異様な暗さにつつまれていた。‥しかし、僕が大きな衝撃を行けたのは、そのことよりも、むしろ新宿の町全体をつつむ不思議な静けさであった。じっさい耳をおおいたい喧噪であったにもかかわらず、僕の目に映った暗い光景は、むしろ無言劇をみるように奇妙な静ひつであった。‥「なあんだ、こんなことだったのか」路地の暗がりにはロープを張りめぐらし、逃げ込む学生を自警団と称する一団が角材で袋叩きにしていた。昨日まで表通りの商店で学生を相手ににこやかに商売をしていた商店界の男どもである。‥見事な返信であった。「そうか、そういうことだったんだな」不夜城を誇る新宿のまばゆい夜景は一夜にして暗澹と不気味な闇の光景に転じていた。僕は乾いた気持ちで、早い記憶にある戦時中の警棒団や灯火管制を思い出していた。「わかったよ、いいものを見せてもらったよく覚えておこう」名状しがたい恐怖感といいしれぬ絶望感、そして索漠として冷えた気持ちをかかえて僕は青山の仕事場に戻って暗室に入った。‥そしてあれからすでに十四年が経ってしまった。いま時代は一見静かにみえている。しかし実体はさらに凶悪になってしまったと思う。あの新宿の黯い一夜は、完全に予行演習であった。そして僕は、相変わらず夜の来るのがとても恐ろしい。」(夜がまた来る)
「夜更けのカウンターで、数人の男が酔いしれている。落とした背中にはごたごたとややこしい浮世のオリがへばりつき、酒で脂ぎった顔には生活の翳がある。ひとまず現実を理想をすべて語りつくした果てに、カウンターの荒野の上に一人ぼっちの我が姿を映している。」(もう一つの国)