Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「無為を為す」

2024年12月21日 18時24分52秒 | 読書

 退職者会のニュース原稿づくりも終了したので、二人で桜木町まで出かけてみた。風は少し強めでロープウェーは休止。もともと乗る気はなかいが喫茶店で軽食とコーヒーを注文し、外を眺めて取り留めもない話をして時間を過ごした。

 夕方になり、風が強まり、厚い雲も出てきた。野毛を一瞥してから地下鉄で横浜駅へ。夕食に弁当を購入。
 平日とは違い、16時過ぎのバスはとても混雑。道路も渋滞していた。団地の中の路面が少し濡れており、予報通り雨がわずかだが降ったようだった。

 老子に「為す無きを為し、事無きを事とし、味無きを味わう」という言葉がある。昔はこれだけが独立して教科書にあり、「為るように為る」、「無理な作為は不要」などという解釈が解説本にも載っていた。
 しかしこの先には「難(かた)きを其の易(やす)きにはかり、大なるを其の細(ちい)さきに為す。天下の難事は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細さきより作る。是を以て聖人は、終に大を為さず。故に能(よ)く其の大を為す」と続く。

 要するに「ものごとは大ごとになってから対処するのでは手遅れ、初期のうちに対処しよう」という意味だと教師に教わった(ような気がする)。

 こんな難しそうな話とは無関係な日である。特に難しい局面に遭遇しているわけでも、事前に何かの仕掛けをしたわけではない。エネルギーを費やした「仕事」がひと段落して、のんびりと夫婦で何事も為さずに、時間を経つのを愉しんだ。こんな日があってもいい。


夜のウォーキング

2024年12月20日 23時01分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 今晩は早めに夜のウォーキング終了。2,500歩程。外はかなり冷えていた。暗い夜道のウオーキング、終バスからも多くの人が下車してくる。男女、老若、偏りなくいる。下車すると、多分下車する前から、多くはスマホだけを見て歩き始める。不用心で怖くないのかと見ている私のほうが他人事ながら心配してしまう。ひったくりや痴漢に「どうぞ好きなようにしてください」と言っているようなものであろう。願わくばすれ違ったとき怯えて、私をそのような人と勘違いでほしいものである。

 これより入浴。入浴後は編集作業に使った資料の後片付けをしてから就寝をしたい。パソコン周囲を片づけると狭い部屋の片付けに繋がる。
 書類の片付けだけだから、大きな音は出ないので、近所迷惑にはならないと思われる。


寝不足が露呈

2024年12月20日 21時10分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は親の通院の付き添い。来週の月曜も付き添いとなった。歳を重ねると病院通いも頻繁になるのは致し方ない。

 実は、二晩続けて明け方3時近くに就寝した。二日間とも起床は8時過ぎなので5時間ほどしか実は寝ていない。案の定、本日も横浜駅近くのオフィス街の喫茶店に入って読書しようと本を開いた瞬間に眠くなって1時間ほど寝てしまった。しかも寝ている間に、印刷会社に原稿を送信することすら忘れてしまった。帰宅したのは18時を過ぎていた。
 本来ならば、家を出る前に送信しておくべきであったものである。家を出る前からすでに頭の中は休眠状態になっていたのだろうか。何とも情けない。

 夕食直前に送信していなかったことに気がついて、慌てて印刷会社に原稿や写真などを3分割にして送信した。担当者はメールを待っていてくれたらしい。すぐに受信した旨のメールが届いた。担当者には申し訳なかった、といたく反省。

 これから年末にかけて、読書タイムをできるだけ確保したいという願望が適えられるであろうか。心もとない。視力が弱くなり、長時間椅子に座ると腰がいたくなるし、読書を続けるのに逆風が強い。


退職者会ニュース新年号の原稿完成

2024年12月19日 22時31分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 ようやく退職者会ニュースの新年号の原稿が出来上がった。4頁もの。今晩中に他の役員に送信の上、訂正すべき箇所の指摘してもらい、20日中に印刷会社に送信する予定。校正刷りの出来上がりは25日の予定である。最終の訂正は来年の8日まで。
 150名もの会員のひとこと集はとても好評であるが、配置は大変。データ入力は書記の方の力作である。しかし2頁にわたってブロック別に当てはめるのも毎年苦労する。不規則な形のタイルをスペースに隙間なく埋めることが毎年の腕の見せ所。今年もなんとか埋めることが出来た。
 入稿期限前に何とか間に合った。これで25日の学生時代の友人との忘年会も心置きなく参加できる。

 本日は神奈川大学の六角橋キャンパスに出向いて生協の書籍部にて本を2冊購入。「最後に、絵を語る」(辻惟雄、集英社)と「無常の使い」(石牟礼道子、藤原書店)。この2冊を含め読みたい本が本箱に12冊ほど積んである。残念ながらすべて来年回しとなる予定である。


鎌倉散歩

2024年12月18日 21時53分15秒 | 山行・旅行・散策

 11時前に二人で横浜駅まで出かけて、若干の買い物と軽い昼食。喫茶店でコーヒータイムののち、妻は買い物、私は退職者会のイベントに参加するために大船へ。

 13時に20名が大船駅に集合し、常楽寺→木曽義髙墓所→甘粕屋敷→長窪切通し→円覚寺→東慶寺→北鎌倉駅までのハイキングに参加。ハイキング自体は1万歩に満たなかった。ワイワイがやがやと70歳超えの集団が、残った紅葉と、冬枯れの景色を楽しんだ。



 常楽寺の静かな佇まいの阿弥陀三尊像(写真)と天井画を鑑賞、さらにひっそりと残された義髙や大姫の墓所を初めて訪れた。
 東慶寺では、毎月18日に開帳されるという水無月観音を拝観。初めて見たが、写真撮影はできないとのこと。
 北鎌倉駅でいったん解散した後、参加者の半分以上は大船駅に戻り、反省会というか慰労会というか、飲み会に参加。忘年会のようなものでもある。

 

 


編集作業の終了間際

2024年12月17日 15時33分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日も朝から家で編集作業、昼前に桜木町まで出かけて打合せ、昼食はコンビニのイートインコーナーでサンドイッチとコーヒーで済ませてから帰宅。午後も編集作業。ようやく全体の90%が出来た。これで20日の入稿に何とか間に合いそう。残り10%のうち今晩中に半分はできあがる予定。最後の5%の原稿は明日18日の午前中に入手できる手筈である。
 印刷会社からの校正刷りは25日の予定。クリスマスプレゼントである。印刷会社の方には年内ギリギリまで世話になってしまう。
 外は良い天気であるが、陽射しを楽しむ散歩をしている余裕がないのが寂しい。今年最後の仕事となってもらいたいものである。この入稿が終われば、校正刷りの点検以外には一応仕事の予定は入っていない。

 夕方からは講演会で再度出かける予定。講演会終了後の飲み会はパスして帰宅予定。


編集作業は大詰めなれど・・・

2024年12月16日 23時06分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 退職者会ニュースの編集作業は大詰めである。入稿は20日(金)となっているので、明日から20日まで編集作業に専念しなくてはいけないのだが、どういうわけか明日17日は、昼前に打合せ、夜に講演会の予定となっている。明後日18日は昼から退職者会のハイキングと飲み会が予定されている。
 なかなか日程が厳しい。立て込んでいる。

 ということで、昨晩に続いて本日も日付が変わる時間を超えて編集作業ということにならざるを得ない。二日続けて3時間半の睡眠時間で根を詰めた作業というのはしんどい。読書タイムは20日(金)を過ぎるまで御預けである。


疲れた

2024年12月15日 23時25分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 朝から退職者会ニュースの原稿づくりに追われた。午後遅くに頭が疲れ切ったので、4千歩程のウォーキングの場所の喫茶店へ。30分ほど「大人のための残酷童話」(倉橋由美子)から3編ほどを読んだ。頭を冷やすには少々刺激的な内容だが、気分転換にはなった。スマホでニュースとメールのチェックを行い、40分ほどで退店。さらに6千歩ほど遠回りのウォーキングコースで帰宅。
 再び作業に取り掛かった。夕食後も作業を継続。ニュースの作成はA3で4頁。面積に換算して75%ほどが出来た。印刷会社への入稿は20日だが、明日の役員会に概要を提示することはできる。
 本当はこれで入浴・就寝としたいのだが、外にも資料をいくつかつくらないといけないので、まだ入浴も就寝もできない。全体の完了は3時過ぎであろうか。
 入浴は本日は断念して明日の朝にシャワーでも浴びることにした。もっとも今入浴しても、3時過ぎの就寝では体は冷え切っているので、入浴の効果は期待できない。
 本当は、冬の朝のシャワーは寒いので避けたいのだが、致し方ない。血圧が高めで降圧剤を服用している私の体には良くない行為である。しかも9時に家を出るので、シャワー時間の確保も慌ただしい。

 現役時代は仕事で10個ほど、労働組合で10個ほどの課題を同時にいつも抱えながら、優先順位をつけて、毎日が慌ただしかった。しかし70歳台も半ば近くになると、5つほどの課題を抱えただけで、頭がパンクしてしまうようだ。日頃の慣れもあるかもしれないが、処理能力が衰えていることは確かなのではないだろうか。

 


そもそもマイナンバーカードを取得していない

2024年12月14日 23時01分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中と夕方から夜にかけて、退職者会ニュースの編集作業。新年号はいつもの倍の4頁仕立てということで、時間がかかる。会員の新年に当たってのひとことが例年150名ほど集まる。このひとこと集が好評である。
 好評ということで、作成するほうも気分は良い。

 しかし根を詰めて作成したので、疲れた。1面の挨拶文は月曜日に原稿がくる。2・3面はひとこと集。4面はイベントの報告で写真は貼りつけたが、文章は来週中に作成する予定。

 年末年始の休みに入るので、印刷会社の予定も詰まっており、例年のことではあるが、日程的には厳しい。

 昼には市民病院の処方箋をもって薬局へ。多くの患者、特に高齢者は12月はじめに保険証が使えなくなり、病院も薬局もマイナ保険証に切り替えないといけないという誤解をしているようで、読み取り器でオタオタしているのを横目に、私はいつものとおり、処方箋と薬手帳を提出しただけで、薬をもらっている。
 私の方が扱いは早いし、会計までスムーズである。毎回保険証の提出も必要なく、楽である。そもそもマイナンバーカードを取得していない私は、資格確認書で処理できる間は、「非国民」と言われようがそれを使うつもりである。

 明日も朝から編集作業である。


明日からは慌ただしい

2024年12月13日 21時57分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 市民病院は混雑はしていなかったが、ずいぶん待たされた。採血を早めにしたからといって結果が医師のもとに届いてから、さらに予約時間を大幅に前倒しで診察をしてくれるわけではない。しかし予約時間後すぐに診察室に呼ばれた。採血結果は良好。特に医師からの指摘はなく、次回は3月下旬の予約をして終了。
 それでも薬局に行く時間的余裕はなく、薬局は明日にした。市民病院の会計を済ませてからすぐに午後の会議の会場に向かった。

 会議終了後、16時過ぎから居酒屋に繰り出し、忘年会の「予行演習」を完了。

 明日の午前中は、本日行けなかった薬局に行く。さらに本日から日曜の夜にかけては、退職者会ニュースの新年号の作成、ならびに月曜日の退職者会幹事会のための資料づくりである。


ようやく冬本番

2024年12月12日 22時44分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の夜のウォーキングは昨晩に続いて、寒かった。昨晩は北風が強くつらかった。本日は風はあまり苦にならなかったものの、気温は昨晩より低く感じた。ようやく冬本番。

 明日は、午前中は横浜の市民病院で採血と診察。薬をいつもの薬局で受け取ったのち、午後は、カメラ持参で退職者会の上部団体の総会に参加予定。
 病院の時間のかかり具合では、薬局に寄る時間がなくなる。処方箋の有効期限は金曜日を含めて4日しかない。月曜は会議で朝から予定が詰まっており、明日が無理ならば、土曜の午前中に薬局に行く必要がある。明日の午前中は時間に追われることになりそう。


「核と人類、共存させてはならない」 被団協・田中熙巳さん演説全文

2024年12月12日 17時28分01秒 | 読書

以下、オスロでのノーベル平和賞受賞に際しての被団協・田中熙巳さん演説全文を掲載。
私自身が、記憶しておきたい演説のひとつとして。

「核と人類、共存させてはならない」      被団協・田中熙巳さん演説全文

 国王・王妃両陛下、皇太子・皇太子妃両殿下、ノルウェー・ノーベル委員会のみなさん、ご列席のみなさん、核兵器廃絶をめざしてたたかう世界の友人のみなさん、ただいまご紹介いただきました日本被団協の代表委員の一人の田中熙巳でございます。本日は受賞者「日本被団協」を代表してあいさつをする機会を頂きありがとうございます。

 私たちは1956年8月に「原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有の非人道的な被害をふたたび繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してきました。一つは、日本政府の「戦争の被害は国民が受忍しなければならない」との主張に抗い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならないという運動。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、すみやかに廃絶しなければならない、という運動です。

 この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしたことは間違いないでしょう。しかし、今日、依然として1万2000発の核弾頭が地球上に存在し、4000発が即座に発射可能に配備がされているなかで、ウクライナ戦争における核超大国のロシアによる核の威嚇、また、パレスチナ自治区ガザ地区に対しイスラエルが執拗な攻撃を続ける中で核兵器の使用を口にする閣僚が現れるなど、市民の犠牲に加えて「核のタブー」が崩されようとしていることに限りない口惜しさと怒りを覚えます。

 私は長崎原爆の被爆者の一人です。13歳の時に爆心地から東に3キロ余り離れた自宅で被爆しました。

 1945年8月9日、爆撃機1機の爆音が突然聞こえるとまもなく、真っ白な光で体が包まれました。その光に驚愕し2階から階下にかけおりました。目と耳をふさいで伏せた直後に強烈な衝撃波が通り抜けて行きました。その後の記憶はなく、気がついた時には大きなガラス戸が私の体の上に覆いかぶさっていました。ガラスが一枚も割れていなかったのは奇跡というほかありません。ほぼ無傷で助かりました。

 長崎原爆の惨状をつぶさに見たのは3日後、爆心地帯に住んでいた二人の伯母の家族の安否を尋ねて訪れた時です。わたしと母は小高い山を迂回し、峠にたどり着き、眼下を見下ろして愕然としました。3キロ余り先の港まで、黒く焼き尽くされた廃墟が広がっていました。煉瓦造りで東洋一を誇った大きな教会・浦上天主堂は崩れ落ち、みるかげもありませんでした。

 麓に降りていく道筋の家はすべて焼け落ち、その周りに遺体が放置され、あるいは大けがや大やけどを負いながらもなお生きているのに、誰からの救援もなく放置されている沢山の人々。私はほとんど無感動となり、人間らしい心も閉ざし、ただひたすら目的地に向かうだけでした。

 一人の伯母は爆心地から400メートルの自宅の焼け跡に大学生の孫の遺体とともに黒焦げの姿で転がっていました。

 もう一人の伯母の家は倒壊し、木材の山になっていました。祖父は全身大やけどで瀕死の状態でしゃがんでいました。伯母は大やけどを負い私たちの着く直前に亡くなっていて、私たちの手で荼毘にふしました。ほとんど無傷だった伯父は救援を求めてその場を離れていましたが、救援先で倒れ、高熱で1週間ほど苦しみ亡くなったそうです。一発の原子爆弾は私の身内5人を無残な姿に変え一挙に命を奪ったのです。

 その時目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。誰からの手当ても受けることなく苦しんでいる人々が何十人何百人といました。たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけないと、強く感じました。

 長崎原爆は上空600メートルで爆発。放出したエネルギーの50%は衝撃波として家屋を押しつぶし、35%は熱線として屋外の人々に大やけどを負わせ、倒壊した家屋のいたるところで発火しました。多くの人が家屋に押しつぶされ焼き殺されました。残りの15%は中性子線やγ線などの放射線として人体を貫き内部から破壊し、死に至らせ、また原爆症の原因を作りました。

 その年の末までの広島、長崎両市の死亡者の数は、広島14万人前後、長崎7万人前後とされています。原爆を被爆しけがを負い、放射線に被ばくし生存していた人は40万人あまりと推定されます。

 生き残った被爆者たちは被爆後7年間、占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され、被爆後の十年余を孤独と、病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けました。

 1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験によって、日本の漁船が「死の灰」に被ばくする事件が起きました。中でも第五福竜丸の乗組員23人全員が被ばくして急性放射能症を発症、捕獲したマグロは廃棄されました。この事件が契機となって、原水爆実験禁止、原水爆反対運動が始まり、燎原の火のように日本中に広がったのです。3000万を超える署名に結実し、1955年8月「原水爆禁止世界大会」が広島で開かれ、翌年第2回大会が長崎で開かれました。この運動に励まされ、大会に参加した原爆被害者によって1956年8月10日「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が結成されました。

 結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国の補償」を求めて運動に立ち上がったのです。

 運動の結果、1957年に「原子爆弾被爆者の医療に関する法律」が制定されます。しかし、その内容は、「被爆者健康手帳」を交付し、無料で健康診断を実施するほかは、厚生大臣が原爆症と認定した疾病に限りその医療費を支給するというささやかなものでした。

 1968年「原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律」が制定され、数種類の手当を給付するようになりました。しかしそれは社会保障制度であって、国家補償は拒まれたままでした。

 1985年、日本被団協は「原爆被害者調査」を実施しました。この調査で、原爆被害はいのち、からだ、こころ、くらしにわたる被害であることを明らかにしました。命を奪われ、身体にも心にも傷を負い、病気があることや偏見から働くこともままならない実態がありました。この調査結果は、原爆被害者の基本要求を強く裏付けるものとなり、自分たちが体験した悲惨な苦しみを二度と、世界中の誰にも味わわせてはならないとの思いを強くしました。

 1994年12月、2法を合体した「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、何十万人という死者に対する補償は一切なく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害に限定した対策のみを今日まで続けてきています。

 これらの法律は、長い間、国籍に関わらず海外在住の原爆被害者に対し、適応されていませんでした。日本で被爆して母国に帰った韓国の被爆者や、戦後アメリカ、ブラジル、メキシコ、カナダなどに移住した多くの被爆者は、被爆者特有の病気を抱えながら原爆被害への無理解に苦しみました。それぞれの国で結成された原爆被害者の会と私たちは連帯し、ある時は裁判で、あるときは共同行動などを通して訴え、国内とほぼ同様の援護が行われるようになりました。

 私たちは、核兵器のすみやかな廃絶を求めて、自国政府や核兵器保有国ほか諸国に要請運動を進めてきました。

 1977年国連NGOの主催で「被爆の実相と被爆者の実情」に関する国際シンポジウムが日本で開催され、原爆が人間に与える被害の実相を明らかにしました。このころ、ヨーロッパに核戦争の危機が高まり、各国で数十万人の大集会が開催され、これら集会での証言の依頼などもつづきました。

 1978年と1982年にニューヨーク国連本部で開かれた国連軍縮特別総会には、日本被団協の代表がそれぞれ40人近く参加し、総会議場での演説のほか、証言活動を展開しました。

 核兵器不拡散条約の再検討会議とその準備委員会で、日本被団協代表は発言機会を確保し、あわせて再検討会議の期間に、国連本部総会議場ロビーで原爆展を開き、大きな成果を上げました。

 2012年、NPT(核拡散防止条約)再検討会議準備委員会でノルウェー政府が「核兵器の人道的影響に関する会議」の開催を提案し、2013年から3回にわたる会議で原爆被害者の証言が重く受けとめられ「核兵器禁止条約交渉会議」に発展しました。

 2016年4月、日本被団協が提案し世界の原爆被害者が呼びかけた「核兵器の禁止・廃絶を求める国際署名」は大きく広がり、1370万を超える署名を国連に提出しました。2017年7月7日に122カ国の賛同をえて「核兵器禁止条約」が制定されたことは大きな喜びです。

 さて、核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いです。

 想像してみてください。直ちに発射できる核弾頭が4000発もあるということを。広島や長崎で起こったことの数百倍、数千倍の被害が直ちに現出することがあるということです。みなさんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。ですから、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか、世界中のみなさんで共に話し合い、求めていただきたいと思うのです。

 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳。10年先には直接の体験者としての証言ができるのは数人になるかもしれません。これからは、私たちがやってきた運動を、次の世代のみなさんが、工夫して築いていくことを期待しています。

 一つ大きな参考になるものがあります。それは、日本被団協と密接に協力して被団協運動の記録や被爆者の証言、各地の被団協の活動記録などの保存に努めてきた「NPO法人・ノーモア・ヒバクシャ記憶遺産を継承する会」の存在です。この会は結成されてから15年近く、粘り強く活動を進めて、被爆者たちの草の根の運動、証言や各地の被爆者団体の運動の記録などをアーカイブスとして保存、管理してきました。これらを外に向かって活用する運動に大きく踏み出されることを期待します。私はこの会が行動を含んだ、実相の普及に全力を傾注する組織になってもらえるのではないかと期待しています。国内にとどまらず国際的な活動を大きく展開してくださることを強く願っています。

 世界中のみなさん、「核兵器禁止条約」のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできるような原爆体験者の証言の場を各国で開いてください。とりわけ核兵器国とそれらの同盟国の市民の中にしっかりと核兵器は人類と共存できない、共存させてはならないという信念が根付き、自国の政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。

 人類が核兵器で自滅することのないように!!

 核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう!!


平凡だが充実した1日・・・

2024年12月11日 19時54分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昼過ぎに二人で生鮮食品やら、親の常備薬など種々の買い物に出かけた。昼食も喫茶店でサンドイッチ一人分を二人で分けて軽くすませた。
 4軒のスーパーと3軒のドラッグストアをめぐり、頼まれた食材や常備薬を探したけれども調達率は8割程度。また後日に挑戦することにした。
 スーパーでは配送サービスを利用したので、帰りはそれほど重くはならずに済んだ。私だけ一つ手前のバス停で下車し、揃わなかった常備薬をドラッグストアで買い求め、かなり遠回りのウォーキングに勤しんだ。
 帰宅後、妻は購入したものの到着を待って、購入代の清算と親の家への配達。私は退職者会の新年号の編集作業の二日目。
 結局読書はできずに一日が終わった。これから21時過ぎまでは編集作業の続き、そして夜のウォーキングと就寝前のルーティン。平凡だが充実した日ということにしておこう。

 昨晩は、ノーヘル平和賞の被団協の演説を聞いてから夜のウォーキングに出かけた。退職者会ニュースに一部だけでも掲載したいのだが、記事を予定していなかったので、スペースがない。予定の記事をできるだけ縮めてスペースを強引に空けるしかないのだが、これがなかなか難しい。どうしたらよいものか。編集者の力量が問われる。
 


俯き歩きが怖い

2024年12月11日 11時39分19秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 最近気がついた自分の体の変化の一つにショックを受けた。
 歩いているときやウォーキングをしているとき、視線がすぐ目の前の路面ばかりを見ていることにハッとした。
 実は、昼・夜とわず、狭い歩道などで目の前に人が忽然と現れてびっくりすることが度重なった。相手がスマホ歩きをしているときだけでなく、こちらもまた前方を見ずに俯いて歩いている自分に驚いた。ウォーキングの時も同様である。
 そして人混みの激しい横浜駅の地下街や繁華街などでも俯いて歩いているのである。多分多くの人が私を避けてすれ違ってくれているのであろうと思うと申し訳ないと思ってしまう。
 年齢を重ねたかたが、腰や肩を丸めて俯き加減に歩いている姿を見て、60代の時はできるだけ俯かずに歩こうと思っていた。
 振り返ってみると、ここ2~3年、そのような体験を繰り返しているのではないだろう。もしかして眼球の動きも年齢とともに遅くなっているのだろうか。

 先週あたりから、前方を見て歩くこと、俯かずに胸を張って歩くことを心掛けている。そうはいっても足もとを見ないと蹴躓く原因にもなる。足もとを見るのが基本になってしまわないように、「姿勢を正して、足もとを見るのはときどき、基本は前方」をブツブツと口の中で繰りかえしている。
 俯いて歩くのが状態になっては、スマホ歩きの人と変わらない自分になっていたことに愕然としている。


「鬼の研究」から その2

2024年12月10日 21時05分33秒 | 読書

   

 午前中に日吉で所用をすませ、横浜駅に戻る途中の駅で下車、静かな喫茶店で昨日に続いて「鬼の研究」(馬場あき子)の2章の第4節「牛頭鬼と羅刹女と地獄卒」を読んだ。
 昨日引用を忘れた箇所も再読。

水尾比呂志によればこの頃(930年代、醍醐・朱雀朝)の仏像彫刻に見られる邪鬼(四天王などに踏まれる)の姿勢はしだいに高姿勢になりはじめるという。反抗の姿勢をもちはじめた邪鬼について考えざるを得ないという着眼点は、説得力のあるものである。「踏鬼の形をとっていても、その性質には実は四天王を無視する不遜な性が育ってきた。不遜な性は反抗の姿勢となって表立ってくる。藤原時代にさらに強まったと思われる」という味方は、貴族に奉仕の形で作品を生んできた仏師たちの抵抗の姿勢を、踏鬼の反逆的な姿勢のなかに見られたものである。権力の鏡台が強調されればされるだけ、踏鬼もまたおとなしく踏まれてはいず、幻影の鬼はいよいよ具体性をもって来ざるを得ないというのが、この時代の風潮の中にあった」(2章第2節「鬼の幻影」)

 実は、私は2017年に東京国立博物館にて開催された「興福寺中金堂再建記念 運慶展」での感想で不思議に思ったことを記載した。
 この「鬼の研究」では930年代、藤原氏の覇権が確立される時期のこととして記述をしてる。運慶は平安末期から鎌倉時代にかけて、時代は下り、武士の時代へと移る時期のことである。一概に比較はできないが、混乱と新しい時代のうねりの時代という共通はある。
 康慶-運慶-運慶の後継者たちという一門の仏師の四天王像を見る機会があった。そこで踏まれている邪鬼の表情の違いが印象に残った。理由がわからず、そのまま宿題のように頭の片隅にこだわりがかたまっている。

  ②  ③  ④  ⑤

 まずは運慶の父の、①康慶による四天王像では、この増長天像(1186年作、興福寺)のように、踏まれる邪鬼は、踏まれてまったく抵抗できずにいる。増長天に降伏し、支配されている。それでも姿形は保っている。服従を強いられているが、「死」に至るほどではない。
 ②運慶の四天王像の毘沙門天像(1189年、常楽寺)では踏まれた頭・顔が大きく変形し、踏みつぶされようとしている。「死」はすぐそこに見える。
 ③運慶とその側近の仏師の手になると言われる多聞天像(東福寺)になると、踏鬼はもはや形をなさないほどに潰され、かろうじて息はしているようだが「死に体」に等しい。
 ところが、もう少し時代が下り1200年代の、④運慶一門による多聞天像(海住山寺)になると、踏鬼はひょうきんな顔に様変わりする。表情はゆとり溢れる笑っている顔になる。同じ⑤増長天像では邪鬼は「しょうがないな、増長天に花でも持たせてやるか」というような表情にすら見える。踏鬼は一方的に仏敵としてやられている様子はない。充分にしたたかな邪鬼である。
 この展覧会では子の湛慶の四天王像もあったが、表情は読み取れないほど躯体が劣化していたので、表情の差異は感じなかった。
 先の馬場あき子の指摘と合わせて考えると、古来の土着の信仰と仏教的な説話の世界とのせめぎ合い、そして仏師という集団と時代の支配者との関係など、考える糸口は多様なようだ。しかし7年も前の展覧会の印象を思い出させてくれた「鬼の研究」に感謝である。もう一度「運慶展」の図録を読み直す機会にしたい。