もう15年以上も昔、俳句の実作を教わったころ、小さな俳句の結社に入った。その主宰から「ものの本質を捉えなさい」と云われた。私はどうしてもそのことばの意味がつかめなかった。
私が次のようなみずすましの句をつくった時、その主宰はみずすましの本質をとらえている、と褒めてくれた。
★太陽も水もわがものみずすまし
太陽がぎらぎらと照る夏の日、小さな池にみずすましが群れていた。汗がしたたるような夏の日が温まった水に反射し、眩しい。その光る水面を自由に素早く行き来するみずすましにみとれて作った句である。何とも他愛のない句、幼い句ををつくったともいえるが、句の調子や言葉のリズムが自分なりに気に入っていた。みずすましに自分を投影しているとまでは考えていないが、退職後に美術館などを楽しんでいる自由に振る舞えるようになった自分の気分が反映していたかもしれない。
しかしみずすましの本質とは何であろうか。みずすましという動物の一側面をうまく言い当てている、というのは「本質をとらえる」とは違う。当時「本質」とは何か、そして「とらえる」とは何か、ずいぶん悩んだ。
主宰がみずすましをどうとらえているのか、さっぱりわからないし、私が「本質」とおもうものとは違うはずなのだが、一般論的に「本質」とポンと言ってしまっていいのか、と不思議に思い続けた。
一般に観察者アがいて、たとえばみずすましを観察した時には、その目に映る形態のある側面Aを見つめている。あるいは側面Dもまた見つめているかもしれない。別の観察者イは側面Bをとおしてみずすましを観察している。その形態だけを読むこともまたみずすましのある存在形態を言っていて、いづれもまた真実である。例えば側面Aは観察をどんどん細かくして、足の数や足がどう動くか、どのように水の上で動くか、スローモーションのように動きを分析することもできる。側面Bは顕微鏡をのぞくように細部にこだわる観察もある。背景の水や波、太陽や、大気の様子からみずすましを浮き上がらせる観察もある。
同時にみずすましという生き物の生物学的な位置付けや進化の歴史などの表面からは見ることのできない「核①」を側面Aをとおして類推することも、観察である。その場合側面Aから直に反射して観察者の眼に飛び込むみずすましの視線による像と、「核①」に到達してから再度側面Aという被膜をとおして観察者にとどく視線による像とが絡み合って観察者アはみずすましを「了解」する。
具体的に言うと、足の形や数や目の形態から、進化論的な像を思い浮かべてみずすましを観察する場合であろう。
一方で表面から見えないもう一つの「核②」というものもある。みずすましというものが、日本の文芸などでどのように扱われてきたのか、日本語の「みずすまし」ということばに貼り付いたイメージ、あるいは観察者イが幼児から観念の中に取り込んできたみずすましのイメージもある。それを観察者イが側面Bのような操作で、自分のみずすましのイメージを観察するばあもある。幼児体験としてのみずすましの像を顕微鏡をのぞくように細かな体部を観察していく、ということなどが具体敵に想定できる。
またひょっとしたら観察者イは側面Bをとおして、核②を想定しながら核①をも見透かしているかもしれない。
私は当時属した俳句結社の主宰のいう本質が、「側面」なのか「核」なのか、あるいは観察者の観ようとする視線なのか見当がつかなかった。
同時に観察者の見た側面Aをとおして表現した俳句から、読者が核②を想定して鑑賞することある。「もの」のある側面と核、そして観察者の他に、読者・評者という眼もまた関わってきて、表現に対する鑑賞というのが成立する。
こんなことを考えているうちに、私はさまざまなことがあってその小さな俳句結社を退会してしまった。
退会してからこのような図を作って、「本質なるもの」という言い方の曖昧さを理解したような気になった。さらにこの図に鑑賞者・評者というさらに立体的な視線を付け加えることと、鑑賞者⇒表現者という注をいれることで、「ものの本質をとらえる」ということに近づけるのかな、という感想ももっている。
私が次のようなみずすましの句をつくった時、その主宰はみずすましの本質をとらえている、と褒めてくれた。
★太陽も水もわがものみずすまし
太陽がぎらぎらと照る夏の日、小さな池にみずすましが群れていた。汗がしたたるような夏の日が温まった水に反射し、眩しい。その光る水面を自由に素早く行き来するみずすましにみとれて作った句である。何とも他愛のない句、幼い句ををつくったともいえるが、句の調子や言葉のリズムが自分なりに気に入っていた。みずすましに自分を投影しているとまでは考えていないが、退職後に美術館などを楽しんでいる自由に振る舞えるようになった自分の気分が反映していたかもしれない。
しかしみずすましの本質とは何であろうか。みずすましという動物の一側面をうまく言い当てている、というのは「本質をとらえる」とは違う。当時「本質」とは何か、そして「とらえる」とは何か、ずいぶん悩んだ。
主宰がみずすましをどうとらえているのか、さっぱりわからないし、私が「本質」とおもうものとは違うはずなのだが、一般論的に「本質」とポンと言ってしまっていいのか、と不思議に思い続けた。
一般に観察者アがいて、たとえばみずすましを観察した時には、その目に映る形態のある側面Aを見つめている。あるいは側面Dもまた見つめているかもしれない。別の観察者イは側面Bをとおしてみずすましを観察している。その形態だけを読むこともまたみずすましのある存在形態を言っていて、いづれもまた真実である。例えば側面Aは観察をどんどん細かくして、足の数や足がどう動くか、どのように水の上で動くか、スローモーションのように動きを分析することもできる。側面Bは顕微鏡をのぞくように細部にこだわる観察もある。背景の水や波、太陽や、大気の様子からみずすましを浮き上がらせる観察もある。
同時にみずすましという生き物の生物学的な位置付けや進化の歴史などの表面からは見ることのできない「核①」を側面Aをとおして類推することも、観察である。その場合側面Aから直に反射して観察者の眼に飛び込むみずすましの視線による像と、「核①」に到達してから再度側面Aという被膜をとおして観察者にとどく視線による像とが絡み合って観察者アはみずすましを「了解」する。
具体的に言うと、足の形や数や目の形態から、進化論的な像を思い浮かべてみずすましを観察する場合であろう。
一方で表面から見えないもう一つの「核②」というものもある。みずすましというものが、日本の文芸などでどのように扱われてきたのか、日本語の「みずすまし」ということばに貼り付いたイメージ、あるいは観察者イが幼児から観念の中に取り込んできたみずすましのイメージもある。それを観察者イが側面Bのような操作で、自分のみずすましのイメージを観察するばあもある。幼児体験としてのみずすましの像を顕微鏡をのぞくように細かな体部を観察していく、ということなどが具体敵に想定できる。
またひょっとしたら観察者イは側面Bをとおして、核②を想定しながら核①をも見透かしているかもしれない。
私は当時属した俳句結社の主宰のいう本質が、「側面」なのか「核」なのか、あるいは観察者の観ようとする視線なのか見当がつかなかった。
同時に観察者の見た側面Aをとおして表現した俳句から、読者が核②を想定して鑑賞することある。「もの」のある側面と核、そして観察者の他に、読者・評者という眼もまた関わってきて、表現に対する鑑賞というのが成立する。
こんなことを考えているうちに、私はさまざまなことがあってその小さな俳句結社を退会してしまった。
退会してからこのような図を作って、「本質なるもの」という言い方の曖昧さを理解したような気になった。さらにこの図に鑑賞者・評者というさらに立体的な視線を付け加えることと、鑑賞者⇒表現者という注をいれることで、「ものの本質をとらえる」ということに近づけるのかな、という感想ももっている。