Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ゲルニカ」(宮下誠)読了

2017年03月06日 19時07分06秒 | 読書
      

 ピカソの作品「ゲルニカ」を扱った「ゲルニカ」(宮下誠、光文社新書)を読了。
 この本は「ゲルニカ」を制作過程、ピカソの生涯の作風の変遷史、美術史、歴史画・戦争画としての位置づけなど総合的に「ゲルニカ」をとらえようとした著作。
 私は第1章「神話的メッセージ」、第2章「製作過程」、第3章「美術史の中の「ゲルニカ」」を興味深く読んだ。
 以下いつものとおり覚書風に。



① 牡牛  心理のランプに照らされ、顔をそむけるその動きを見ると、「ミノタウロマキア」のミノタウロス同様、暴力、罪業の象徴としてフランコ、ないしファシズム、あるいは自由を阻害するあらゆる強制の象徴と捉えることもかのうだろうが、‥ピカソの闘牛好きを考えれば、スペインそのものの敬称かともとれるだろうし、「ミノタウロマキア」の梯子を上って災厄を見届けると同時に、そこから身を遠ざけようとする画家=ピカソ(=キリスト)自身だとも考えられ。
 一方、より普遍的にとらえれば、善悪を超越した盲目的な破壊と創造の原理を形象化したものとも取れる。
② 瀕死の馬  フランコに蹂躙されたゲルニカ、ゲルニカ市民、あるいは共和国スペインと見るものだろう。普遍的な解釈としては、瀕死のヒューマニズムということだろうか。
③ 灯火を捧げ出す女  「ミノタウロマキア」の少女同様、「真理」の象徴と捉えて構わないだろう。
④ 死んだ兵士  解釈の難しいモティーフである。単純にみれば、フランコ・ファシズムの犠牲となった戦死ということになるのだろうが、それが彫像となっていることから考えて、これもまた寓意てな意味を探る誘惑に駆られる。その近くに花が置かれていることから見て、破壊的な犠牲からいずれ健気にも立ちあがることが切に求められる。スペイン市民の代表として描かれたとも考えられるのではないか。‥一つのイメージソースから複数のイメージを引き出すこのような方法、いわばイメージの切断による複数のイメージへの転用、という手法は、ピカソの画業の中にあっても興味深い事例であり、また、絵画あるいはイメージの切断と再接合をさまざまな形で試みたパウル・クレーの画業とも通じるものがあり、示唆的である。
⑤ 死児を抱いて泣く女  死児を抱く母親はゲルニカ市民の代表であろう。しかしこの図像は伝統的に見ればピエタであり、母の姿勢は、ピカソが1929年から32年にかけて描いた「磔刑」のシリーズの中に登場するマグダラのマリアにさかのぼる。‥キリストの死と再生の物語を連想させる象徴と捉えることも可能だろう。
⑥ 画面左側から中央に向かって走り込む女  危急を察して画面中央に向かうのか、それとも災厄から逃れようとしているのか。この女もまた多義的である。画面のあまりの厳しさ、悲劇性、大袈裟さに対するピカソのバランス感覚がこの女に集約すると考えれば、この女もまた重要な役割を担っていると言わざるを得ない。ピカソの「非政治性」というか、「政治、社会問題に対するあからさまな無関心」の記号であると考えたい。
⑦ 建物から落ちてゆく女  制作段階の習作スケッチを思い出していただければ、これがピカソ自身=キリストという象徴を担っているのではないかとおおよその予想がつく。悲劇の女であることは間違いがないが、同時にここにも死の厳粛と再生の歓喜が混在している。
⑧ ランプの描きこまれた縮小した太陽  太陽であり、神の眼であり、すべてを明るみに出す証人でもあろう。これを資本主義国家、あるいは、キリスト教的救済の希望を書いた世界と捉える研究者がいる‥。ここでも多義性は健在だ。
⑨ テーブルの上の鳥  元は死せる少女の近くにあった鳥である。その近くにアネモネが咲いていることから、「ミノタウロマキア」の画面右上方の建物の中にいた少女たちとともにいる鳩との関連性から、これを精霊の象徴と捉えることができるだろう。あるいは平和の象徴としての鳩とも捉えられる。一方、この鳥は白い部分によって分断されていることから、他の諸形象の危機的状況を象徴しているとも取れるだろう。
⑩ 描かれた場面全体  こつて三日月が描かれ、縮小された太陽とランプが同居していることから考えて、画面のモノクロームとは関係なく、いわばここに無時間制を見たくなる。時間は無時間性と瞬間性の大きな振幅の中でいわば混乱させられている。場面は室内でもあり屋外でもある。いわば可能態として、時間は動揺し、場所性も動揺する。
⑪ 全体としての解釈  これまでの解釈例から、筆者としてはここに、キリスト教的黙示録のヴィジョン、死と再生の息詰まるドラマ、ヒューマニズム救済の希求、すべてを見抜く神の眼差し、それでも繰り返される不条理な諍いと死、人間の愚かさと賢明さ、人知を超えた明暗、善悪の葛藤の象徴的表現の最良の成果を見たいと思う。そもそもピカソはキリスト教に対しても、政治に対してもおそろしく無関心であった。そんな彼が、たとえ依頼されたものであろうと、壮大極まる象徴的寓意的画面を恵萼こと自体、無理があったと考えてもおかしくない。


 泣く女はオルガ、マリー=テレーズ、ドラ・マール、あるいは別のおんなかもしれない。ピカソはその諍い、ピカソにとっては自業自得な個人的出来事を、壮大な宇宙論的ドラマと対置し、危うくバランスをとっているのではなかろうか。「ゲルニカ」の不安定さ、動揺、解釈の多義性は、このようなピカソの創造の力学によるところが大きい。

 「ゲルニカ」には攻撃する側も描かれていない。牡牛をその象徴とする見方もできるが、女子供の具体性に比べれば、加害者の不在は考えてもよいことだろう。‥「ゲルニカ」を画家の最も内面的な室内空間であるアトリエと考えれば、「ゲルニカ」がピカソのいわば内面の表徴としても読める。マクロコスモスとミクロコスモスの併存こそ「ゲルニカ」構想の壮大さを物語っている‥。

 「ゲルニカ」はまさしく戦争画だ。しかしそれは人が人を意識して殺しあう、そのようなものを描いたものではなく、いつ、不意に、私の命を奪ってしまうか分からない、まことに不気味で、不条理な20世紀の戦争の恐ろしさを描いたものなのである。


 なお「はじめに」には岡本太郎のピカソに関する言が引用してある。

 「もっとも偉大であり、太陽にごとき存在であればこそ、かえって神棚からひきずり下ろし、堂々と挑まなければならないのだ。神様ピカソわただほめ讃えるのでは容易であり、また安全だ。‥ピカソが今日われわれをゆり動かすもっとも巨大な存在であり、その一挙一動が直ちに、歓喜・絶望・不安である。ならぱこそ、あえて彼に挑み否定し去らなければならないのだ」(岡本太郎、青春ピカソ)


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