花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

私の住まい史(7)

2008年02月18日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 上の子どもはすでに家を離れて本州の大学に行っていた。

 下の子どもが中学を卒業すると同時に、私の札幌への転勤が決まった。地元の高校への合格を果たしていた子どもは、札幌の高校に編入できたので、その子どもを連れての単身赴任だった。
 住む場所を探す時間がなかったので、取り敢えず職場の近くという条件を優先して借家を見つけて契約し、バタバタと引っ越しをした。

 入居後分かったのだが、その場所は、札幌に多い泥炭地の中でも特に地盤の悪い地域だった。
 その冬、何度か大雪が降った。その借家は建ててから25年位しか経っていなかったが、その都度、屋根に積もった雪の重みで家の一部が少しずつ土中に沈下して行くのだ。平均に沈下するなら問題は小さいが、弱い地盤の所が一番沈下するので家が歪み、玄関や居間のドアがきちんと閉まらなくなった。

 私は慌てて図書館から「札幌の地勢研究」の本を借りて勉強した。
 それによると札幌は、南部の丘陵地を除き、大半が泥炭地で、地表から10~25m下まで水分と腐葉土が大半を占める軟弱な泥炭でできている事を知った。
 (反面、地下水が豊富に得られるため、都市の中心部に建つ高層ビルが地下水を汲み上げ、その影響による地盤沈下が問題になったりもしていた)
 それで、当時の新築住居の大半は、地面から地中の硬い岩盤迄到達するように、予め長いコンクリートの杭を数十本打ってから、その上に基礎工事をする工法で建てられていた。
 5階建て位の新築マンションを見に行った時、基礎工事の設計図面を見せて貰ったら、25mの杭が百数十本入っていた。
 この杭打ちはもの凄く高価なのだが、それをしない家は数年後には傾き出し、バランスが崩れて外壁に亀裂が入るのだった。私の借家が建った頃は、まだこの工法は行われていなかったのだろう。

 入居した年の夏、震度3程度の地震が起きた。居間に下がっていたガラスのシャンデリアが大きく揺れて、もう少しで天井にぶつかり落下する所だった。私は肝を冷やした。その地域では、震度が6位あったように思った。
 ある晩、私は夢を見た。家が陥没し、モグラのように土中で自分が寝ている夢だった。目が醒めてからも恐ろしかった。


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私の住まい史(6)

2008年02月17日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 ところが新築した住宅に入居してから3年程経った年末、ローンの返済に銀行に行った時、何気なく家のローン残高を調べた。3年間、毎月高額の返済をして来たのだから、大分元金が減った筈だと考えていたにも拘わらず、借りた元金はほとんど減っていなかったのだ。

 驚いた私は、「住宅金融公庫のローンの仕組み」が書かれている本を、図書館から借りて来て読んだ。
 何と住宅金融公庫のローンの返済方法は、長期間借りる金額に付く莫大な金利分からまず先に支払って行き、元金は、何年も後になってからようやく少しずつ減っていく仕組みになっていた。それが国の持ち家政策の隠れた本質だった。

 その事を知った私は、一大決心をした。一日も早く借金を返してしまうのだと。
 それからは節約生活に徹し、ボーナスが出る度にまとまったお金を銀行に運んだ。そして当初20年で支払う計画になっていたローンの残金を、数年間で全額完済することができたのだった。勿論、当初予定されていた金利分は、かなり減額された。
 この時、私は、『借金すれば、利息分だけ高い買い物になるのだ』という事を、大きな借金の体験を通して学んだのだった。
 
 こうしてやっと自分の家で落ち着いて暮らせるようになってから間もなく、私に上の子どもとは7才離れた長女が産まれた。
 町の保育所は、1才からしか入所が認められない制度になっていたが、その代わり、「保育ママ制度」(個人の家で0歳児を預かる場合に、町から助成金が支給される制度)があった。この子はこの制度を利用して生後7週目から近くの50代の主婦に見て貰い、1才4ヶ月になった4月からは保育所に預けた。
 (子どもは12月生まれだったので、保育所に入れる4月までの3ヶ月間は助成を打ち切られる事を知り、何とかして欲しいと町に掛け合って助成を延長して貰ったりした。)

 この子が1才になった頃、トイレを和式に改装して、子どもが落ちる危険性をなくした。しかし、男女共用の和式トイレは、男性が小用に使うと、飛沫が周囲を不潔にすることが分かった。
 数年後に下水道が整備され、トイレも水洗式に変わった。

 この家で二人の子どもを育てたが、上の子どもはすっかり丈夫になり、下の子どもも比較的元気に順調に育ってくれた。私も落ち着いて、16年間仕事に没頭した。


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私の住まい史(5)

2008年02月15日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 公宅に住んでいる人達よりも遙かに高い借家賃を払いながら、子どもが体調を崩して病院通いに明け暮れなければならない借家に、何時までも住み続ける事はできなかった。

 そんな時に丁度、町の広報紙で、町役場が新しい造成地に分譲住宅を建てて売り出すことを知った。
 憤懣やる方ない私は、家を建てようと夫に相談したが反対された。しかし、私の責任で建てるのなら良いと言われ、翌日、直ぐに申し込みに役場に走った。
 役場の都市計画課との会合、住宅金融公庫とのローン契約、設計、その変更など、それら一切は私一人で行った。
 私が31才、子どもが6才の年末に私名義の家が完成して引き渡された。引っ越しの荷造りも、全部私一人でした。

 その家は、当時、大学の建築科の研究者達がしていた最新の寒地住宅研究に基づき、北海道住宅供給公社が建てた「北方型寒地住宅」だった。
 北海道の気候の特徴は、本州とは大きく違って寧ろ北方圏に近い。住宅は北方型の気候に合い、冬の寒さを快適に乗り切ることができるものでなければならない、という基本理念に立った住宅だったのだ。
 建築費と熱効率、強度を考え、家の平面形は単純な長方形になっていたし、屋根は、急勾配の三角屋根で、大雪が降っても屋根に積もることはなかった。
 外壁は軽量鉄骨入りのブロック造りで、内壁、天井裏にはグラスウールが100mm以上の厚さで入り、床下には20mm位の厚さがある当時最新の断熱用建材、スタイロフォームが貼られていた。
 窓は外窓が機密性の高いアルミサッシ、内窓が木製の二重窓になっていて暖かかった。

 1階の部屋の配置は「居間中心型」になっていて、13畳もある広いリビングダイニングにつけた灯油ストーブ一つで、居間に面した6畳間2室と台所が全部暖まる様に設計されていた。

 また、公社の平面図では、台所が西向きで、玄関は道路からかなり段差のある方角についていたので、私は考えて、図面を東西に180度ひっくり返して建ててくれるようお願いした。
 お陰で夏場、東向きの台所では食品は腐り難かったし、車の出入りもスムーズな家になった。

 その家に入居する事になってから、私は、「北方型寒地住宅」について勉強し始め、当時作られ出したモデルハウスの見学に行ったりするようになった。
 その結果、初めての冬に備えて、玄関の上がり框にアルミサッシのガラスの引き戸を付けて貰い、北向きの玄関戸から玄関ホールに直接、寒風が入り込まないよう「風除室」を作った。

 トイレは男女兼用の洋式だったが、便漕がU字型になった汲み取り式だったので、常に排泄物が一定の高さまで貯留していた。そのため、もし小さな子どもが大きな穴に落ちたとしたら、絶対に助け出すことが無理なものだった。それで、子どもが小さい間、トイレに行く時は心配で、必ず着いて行った。

 2階は住み手の自由な造作に任されていたので、知り合いの大工さんにお願いして小屋裏をうまく収納として使えるように私が設計し、二部屋作った。

 敷地の広さは105坪あり、しかも北、東、南の三方向が道路に面している角地だったので、家と大きな車庫、物置を建てても、南側にたっぷりとした庭が残った。
 ベランダの前には芝の種を蒔き、芝生を作った。敷地の周りには生け垣を植え、庭には子ども達の記念樹、色々な花木、球根花、苺、各種の野菜類などを育てて季節の変化を楽しんだ。


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私の住まい史(4)

2008年02月13日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 当時は、幹線道路は舗装されていたが、小さな田舎の一般道路はまだ砂利道が多かった。
 夏のある日、自転車で保育所に子どもを迎えに行き、やっと町外れの家に着いて後ろを振り返ると子どもがいない。
 驚いて引き返すと、途中の坂道の端で子どもがしゃがんで泣いていた。自転車が砂利にタイヤを取られてガタガタし、バランスを崩した時に、後ろの荷台にいた子どもを落としてしまったのだ。

 この事があってから、私も運転免許を取ることを決心した。
 夫や舅達には「危ないから駄目だ」と猛反対されたが、子どもを守り、共働きを続けるためには、私も車を持つ必要があると思ったのだった。
 自動車学校へは毎日仕事が終わってから通い、1ヶ月余りで無事に免許を取って中古の軽自動車を買った。
 それからの私は、夫に頼らずに通勤し、保育所に子どもの送り迎えをし、自分の好きな時に好きな所へ買い物などをしに行くことができるようになったし、もう子どもを落としてくる心配も無くなった。
 しかしその反面で、生活の大半の責任を、次第に私一人でしょいこむ事になって行った様に思う。

 当時、私が働いていた職場には公宅があった。転勤者が出て行くことになって空いた公宅の入居を何度か申し込んだが、いつも私は除外された。大抵、私よりも幾つも若い男性職員の家族が、入居することになるのだ。
 不審に思って上司に理由を聞いてみた。
 「家は世帯主に貸すことになっているから。」という答えが返ってきた。それならどうして初めに言ってくれないのかと憤慨した。
 確かに我が家も慣習的に夫が世帯主になっていた。しかし、小さい子どもを抱えているので、夫が働く隣の町に居住するより、私が働くこの町に居住する方が、保育所の事も含めて生活しやすい。上司にその事を説明しても埒があかなかった。

 私は町役場に飛んで行った。住民課の係に、世帯主を変えられるか聞いたのだ。
 すると「一般的には家族の中で、主に生計を担っている者が世帯主となるので、変更もできる。」とその職員は説明した。私と夫の所得はほぼ同じだったので、直ぐにその場で変えて貰い、その写しを証明として貰った。

 所が次の公宅の入居選考にも、私はまた漏れたのだ。改めて上司に理由を問い正したが、「特に理由はない。」とはぐらかされてしまった。
 明らかな男女差別だと私は大いに憤慨したが、当時は公宅の数が限られていたし、今よりずっと借家の住宅事情も悪かった中での出来事だった。


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私の住まい史(3)

2008年02月12日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 春先、毎日、無数に湧き出すヤスデに悩まされていた家で、長男は2才を迎えた。
 その夏、私が働いている間、ずっと子どもを見守ってくれていた母親が、突然体調を崩して入院した。急性肝炎だった。そしてあっという間に肝硬変に進行して、秋にはわずか54才の若さで急逝してしまった。
 私の精神的なショックは言葉では言い表す事ができない程大きかったが、葬儀を済ませた数日後には働かなければならないという現実を前にして、悲しみに浸っている暇はなかった。

 その町には保育所はあったが、4才以上の子どもしか預からないという。仕方がないので2才半になる長男を連れて早朝の汽車に乗り、職場に通った。職場のある町でも保育所は3才児以上の子どもしか預かってはくれなかったが、見るに見かねた同僚の奥さんが暖かい手を差し伸べてくれた。

 冬が来て雪が舞い出すと、子連れ列車通勤はもう心身共に限界になった。意を決して夫に相談し、私は子どもと二人で職場のある町の公営住宅に引っ越すことにしたのだ。
 所がその1DKの公営住宅は新築されたばかりだったが風呂がなかった。仕方なく道東の凍てつく夜に2才の子を連れて公衆浴場まで片道30分程かけて歩いたが、本当に大変だった。
 所が、また私達を見かねた同僚から声がかかり、その家で風呂を焚いた日に、たまに子どもと貰い風呂をした。凄く有り難かった。

 夫と別居しての共働き生活は、もう限界かも知れないと思っていた矢先、私の生活を見かねた上司が力を尽くしてくれて、3才未満児の保育所がある遠くの町の職場へ私の転勤が決まった。その町は、夫の勤める町の隣だった。
 また家族で生活ができると喜び勇んで引っ越しの準備をしたのだが、そこも小さな町のため、またまた適当な借家がない。何とか見つけた借家は、安普請の2DKの一戸建てだった。

 その家は夏は快適なのだが、冬は床から冷気が上がって来て座っていられないのだ。子どもと二人でストーブの傍に置いた長いすの上にお座りをして過ごした。
 この家で暮らし始めてから、子どもがしょっちゅう風邪を引くようになり、やがて慢性化して気管支喘息だと言われるようになった。その内、何度も中耳炎をぶり返す様になり、毎週のように病院通いをした。いつも具合が良くない子どもの看病も、親としては辛いことだった。

 またその家は、玄関側に雪が落ちてくる屋根の形だったため、大雪が降って雪が積もると、外開きの玄関戸が開かなくなり慌てることもあった。そんな時はベランダから外に出て、玄関前を除雪して出勤した。
 風呂場は木製だったが、ある時、子どもと入っていたら底が抜けた。古くて底板が腐っていたのだと思う。大家さんに連絡して新しい風呂桶に取り替えて貰った。
 この家では、初めてポット式の石油ストーブをつけた。煙突掃除の必要がなくなってもの凄く楽になった。また、初めて電話をつけた時には大感激した。
 保育所へは2年前に車を持つようになった夫が、朝、子どもを送り届け、夏場の夕方は、私が自転車で子どもを迎えに行った。その保育所で息子は、最初は3才未満児のクラスに入ったが、毎年一つずつ上のクラスになって、小学校に上がるまで4年間通い続けた。


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私の住まい史(2)

2008年02月12日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 就職したのは昭和40年代に入ったばかりの時である。
 それまで名前も知らなかった道東のある小さな田舎町からスタートした職業生活は、町が用意していた女子寮の一室で始まった。
 ここでは石炭のルンペンストーブがついた2階の6畳間があてがわれた。ガステーブルがなかった1年間は、部屋のルンペンストーブで煮炊きをしたので、熱くて参った。水道のある調理場は1階の片隅にあったから、階段の上り下りも大変だった。
 しかし、その寮で暮らしていた数名の独身女性達とは、直ぐにうち解けた話ができる友人になれた。

 やがて結婚することになり、新居となる借家に引っ越しをした。
 住むことになった町は職場から30km離れた田舎町だったが、今のようなアパートはほとんどなかった。新居とは名ばかりのやっと見つけた家は木造の古家で、冬になると玄関の土台が凍上して戸枠が歪み、ガラス戸が閉まらなかった。5cm位できた隙間からはマイナス20度前後にもなる冷気や雪が容赦なく吹き込んで来て、本当に参った。
 洗濯機も湯沸かし器もない新生活のスタートだったので、冬場の洗濯には難儀した。初めての洗濯機は半年後に買った。調理は一口のプロパンガスコンロだった。
 当時、車はまだ一般化していなかったので運転免許取得などには考えも及ばず、私は毎日、朝6時40分発の国鉄で通勤した。真冬のマイナス20度を超す気温の中、当時流行したミニスカートを履いて駅から職場まで行く間に足が紫色になったが、当時の私は若かったのだと思う。

 余りにもひどい古家だったので、それから間もなく、少しマシな借家を見つけて引っ越しをする事にした。
 しかし、住んでみたら陽が当たらないし、木造モルタル壁なのに凄く寒い家だった。
 その家には背の高い貯炭式のストーブを付けた。このストーブは、予め一日分の石炭を一杯ストーブに入れ、下から少しずつ燃やしていく構造になっていて、一々石炭をくべる手間がいらない新式のストーブだった。

 しかし、ある年、昼間働いている時に、天井から下がっている棒状の蛍光管が幾つも落ちる程の大きな地震が起きた。考えたらいつも火種があるストーブが誰もいない家にある事を思い出した。もしも地震で倒れたら出火する。慌てて職場から汽車に乗り、家に駆けつけたが、大丈夫だったのでホットした。あちこちで道路が陥没したり、函館では大学の校舎が潰れたりしたが、その時の我が家では棚のこけしが一つ倒れていただけだった。

 やがてこの家で、初めて生まれた子供を育てる事になったのだが、生後1ヶ月過ぎから夜泣きが始まり、子どもの世話を引き受けるために同居してくれた私の母親を困らせた。

 その頃丁度、2戸建ての借家が1棟新築されるという事を伝え聞き、どんな家でもここよりマシに違いないと考えて、間取りを確かめることもせずに予約した。
 初めて入る木造モルタル壁の新築の家は、2DKの西向きで陽が射す明るい家だった。西側は畑になっていたので初めて開放感も味わえた。
 不思議なことにその家に引っ越した夜から、子どもは夜泣きしなくなり、私達もやっと落ち着いた住生活ができるようになった。
 その家でも貯炭式のストーブを付けたが、やっと初めて、すきま風が少なく、割合温かな家での冬越しができるようになったのだった。
 しかし、春になって驚いた。畑側のモルタル壁一面に、下から這い上がった無数のヤスデが真っ黒くへばりついているのだ。箒でたたき落としてから集めて燃やすのだが、ちり取り2杯にもなり、毎日、次々と土中から湧き上がって来るのだった。多分、昔は田圃だった所に家を建てたのかも知れないと思った。
 この家では2年間暮らした。

 
 

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私の住まい史(1)

2008年02月10日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 昨日、「つらら」について書いた後で、私が半生を暮らしてきた住まいについて振り返りたくなった。もしかすると私の個人的な住まい史の中に、北海道の住生活史が、また、日本の経済成長史をのぞき見る事ができるかも知れないと思っている。

 「つらら」には、子ども時代住んでいた木造の家について、その雪下ろしの思い出を書いたが、今考えると本当に冬は大変な家だった。
 壁は土壁で、その表面に板を重ねて張ったトタン屋根の家だった。
 北海道なのに基礎は布基礎ではなく、コンクリートの土台を地面に何十本か埋め、板張りの床を作ってその上に畳を敷いただけの物だった。窓も木の窓枠に小さなガラスが数枚入っていただけだったし、板張り天井も木の節が抜けた所には穴が開いていた。
 冬は冷たいすきま風が入るので、昭和30年代になると売られるようになった透明なビニールを買ってきて、外側から窓に貼った。お陰で冬中、窓を開けることができなかった。
 その町は北海道の豪雪地帯なので降雪量が凄く、毎年、窓を塞いで屋根の軒下に届くほど雪が沢山降った。幾つもの窓の前を除雪して明かりが入るようにする仕事も私の役目だったが、除雪するには窓を塞いでいる雪を跳ね上げるしか方法がなかった。
 そんな寒い家だったから、居間のストーブが唯一の熱源だったが、石炭ストーブだったために月に一回は煙突掃除が必要で、その度にまき散らされる真っ黒い煤と、その後始末のための掃除にはいつも閉口したものだった。
 寝室には当然暖房はなかったから、真冬は寝る時、熱い湯を入れた湯たんぽを利用していた。この湯は、毎朝、顔を洗うときに役立った。朝起きると、布団の襟元が自分が吐いた息でガバガバに凍ったようになっていることもあった。
 そんな隙間だらけの家だったから、結露やカビが生えること等は聞かなかった。

 昭和30年代の後半、私は念願の札幌の大学に入った。そこで暮らした定員数十人の女子寮の作りも同じ様な古い木造だった。
 だるま式の石炭ストーブがある1間幅の押入がついた6畳間に、二人ずつ生活するのだった。ベットなどという洒落た物は無かったし、煙突掃除があった日の真っ黒く汚れた部屋の掃除は大変だった。
 風呂場はコンクリートの床に大きな木製の桶が置かれていて、週に2回湧かされた。
 食事は朝と夕の2回出た。調理の女性が居たが、自治寮だったので献立を立てるのは寮委員だったし、配膳は毎朝順番に当番制で全員が行った。
 22時の門限があり、遠くへアルバイトに出掛けた場合は、やっと間に合う事もあった。
 それでも国立大学の寮だったので寮費は比較的安かったが、学費も全て自分で賄わなければならなかった私の大学生活は決して楽ではなかった。日本育英会の奨学資金と家庭教師などのアルバイトを掛け持ちして、何とか4年間頑張って卒業した。


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つらら

2008年02月09日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 今朝はマイナス8度だったが、昨日まではマイナス13~15度の日が続き、一日中冷凍庫の中にいるような気温だった。
 歩いていたら、あちこちの家の軒先に下がっているつららを見かけた。
 つららは屋根の断熱性能が低い場合、家の中の暖房によって暖まった熱が天井から小屋裏へと伝わり、ついに屋根の上に乗っている雪を溶かして水滴を作り、それが少しずつ軒先に流れて来て、低い外気温に触れてつららを作るらしい。
 だから屋根下や天井の断熱性能が高く、家の中の熱を外へと逃がさない様な機密性の高い家にはつららはできない。

 ある所で軒先に1.5mにもなると思われるつららを発見した。
 最高気温がプラスになって暖気になると、屋根に積もった雪と共に、こうしたつららが自然に落下する。太さが直径十数センチにもなった先の尖った氷の固まりは、簡単に凶器にもなる。

 

 また、それ程太くなくても、軒先にできた大きな氷塊と一緒に落下すれば、下に人がいる場合大変な事になる。
 もしも、出入り口につららができたり、雪が落下したりしたら危険なので、家を建てる時は屋根の形をどうするかという設計が大切になる。しかし、中にはこうした点を配慮せずに建てられた家もたまに見かける。毎日出入りする家族や訪問客は冷や汗ものだろうと気の毒になる。

  また、つららができてから屋根の雪がせりだすと、つららは次第に家の壁の方に向かって曲がりながら成長する。その場合、やがて成長したつららが、窓ガラスを突いて割ることがある。
 いずれにしても被害を防ぐために、つららを予め落とそうとする家が多い。

 私の子ども時代の家は、当時の北国の家が皆そうであった様に、断熱材など全く使われていないザルの様な家だったので、雪が降ると屋根に積もった雪の下層部が溶け、軒先にもの凄く大きなつららの固まりを作った。
 男手のない我が家では、トタン屋根に登って雪下ろしをするのは中学生になった頃からの私の仕事だった。
 当時は命綱などの配慮も知らず、スコップだけ持って上がった屋根から、暖気の日には何度も雪や氷と共に下に滑り落ちた。下にも積もった雪があったから怪我には至らなかったが、下手したら私の直後に落ちてきたスコップで怪我をしたかも知れなかった。思い出すと今でもぞっとするのである。

 町には高層の建物が増えたが、つららや雪が突然落下する場合を想定して、危険箇所にロープを張り巡らし、立ち入り禁止の札を立てている所も多い。
 しかし、予想できない所から落ちてきて怪我をすると大変なので、雪国に住む私達は滑って転ばないように足元に注意しながら、上部にも気を配って歩く。これから春先まで、こうした注意が欠かせないのである。

 30年程前から、北国の家造りが研究され出し、今では高気密・高断熱の家が常識となっている。つららのできないそういう家を作るには建築費が当然高くなるから、冬暖かく夏涼しい北国の家は、今や日本一贅沢な家だとも言えるのである。

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ゴミの分別方法が変わった

2007年04月04日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 今まで幾つかの町に住みましたが、ゴミの収集方法が同じ様で違います。
 今の町では、3月まで燃えないごみに分けていたプラスチック類、PTリサイクルマークのついた容器、包装紙、ラップ類、空き缶、空き瓶は、4月から資源ゴミとして収集されることになったので、私も今朝、初めてこれらを分別してゴミステーションに持って行きました。資源ゴミは、今までの発泡スチロールや古紙、牛乳パックなどに加え、さらに種類、量ともに増えた事になります。
 リサイクルされる資源ゴミが増えるのは良いことですが、分別の仕方に慣れるまで少し時間がかかりそうです。(私は今朝、白板に分かりやすく書きました)

 また、これからは、資源ゴミは2週に一回、燃えないゴミも2週に一回しか回収されなくなるので、この町に住む人達は、自宅にゴミ置き場が必要になります。持ち家の人は物置などのスペースがあるけれど、独身のアパート住まいの人達はどうしているのかと気になります。

 また、この町では、燃えるゴミと燃えないゴミは、指定されたビニールのゴミ袋をスーパーから買って来て使う事になっています。10枚100円と袋代の実費ほどなので、今のところ負担感はほとんどありません。でも、今後もっと高くなれば、自治体の責任は何処までかが問題になるでしようね。

 札幌に居たときの事です。隣接する隣町が、ある年から有料になったのです。1袋数十円だと聞きました。見ていると、私の住んでいた集合住宅のゴミ集積場に、回収日の朝になると車で来て、ゴミを置いていく人達がいるのです。隣町の人だと思いました。生活のためとはいえ、何か割り切れなさを感じました。

 外国旅行をすると分かるのですが、日本ぐらい、容器包装に気を使い、ある場合は誇大包装だったりする国はほとんど見かけないですね。(世界中の国を確かめた訳ではありませんが) 外国で物を買っても、まず包装はして貰えないです。頼むと、簡単に袋か何かに入れてくれる事もありますが。

 日本では、何か買い物をすれば、結局、ゴミが増えてしまうし、ある場合は、内容より見かけの方が重視されている様な困った問題も出てきます。また、消費者は容器包装分の費用を結果的には負担させられているのです。
 でも、綺麗に包む文化は、相手を敬う事から来る日本人の昔からの文化でもあります。また、昭和59年のグリコ・森永事件以来、食品の包装は安全性を強めるために却って厳重にされる様になった経緯もあると思います。
 そう考えると、容器や包装を何処までどう合理化するべきか、大きな課題ですね。

 スーパーのレジ袋も、燃やすとダイオキシンが発生するかも知れないという環境問題があって、今年からは廃止する店が多くなって行く様です。
 そういえば私の子ども時代には、食料品の買い出しには買い物籠を持って行きましたし、豆腐屋さんにはボールを持って買いに行った事を思い出します。(米屋さんには家族証明書を持って買いに行っていた事もありました。)
 今のようなプラスチック容器や発泡スチロールのトレイ、ビニールなどの包装は、人件費を省力化するスーパーマーケットの誕生と共に生まれ、様々な加工食品や冷凍食品、レトルト食品という食品の加工販売と共に発達して来た様に思います。

 さらに今では、遠い外国で加工、包装されて輸入される食品も多い訳だから、ますます、容器や包装の仕方が重要になりますね。それだけにゴミのリサイクルを進める必要性は、確かに増しているのです。
 今日はゴミの事を少し考えて見ました。
 

 
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《5》 マンション住まいを止めたわけ、防犯対策

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 
 今後は特に高齢者と独身女性の一人暮らしが多くなると思います。
 高齢者も長生きの女性が多いわけだから、一人世帯の圧倒的多数は女性という事になるでしょう。(今日の朝日新聞に「中流家庭は崩壊した」という記事がありましたが、一人世帯も二極化が進むのでしょうか)

 私自身はこの十数年、通勤と子どもの通学に便利な札幌圏の○JR駅前のマンションに住んでいました。
 このマンションは駅前なのですが、札幌市の大きな公園に隣接し、敷地にも余裕スペースがあって、季節を考えた植栽がされ自然が一杯でした。また、便利で、プライバシーが守られる設計がされ、外部の音や隣家の生活音はほとんど入って来ないし、防犯上も安心で冬は暖かい。しかも管理組合がしっかりしているのですが、何か足りないのです。

 ここに退職後もずっといたら、ほとんど体を動かす事もいらず、コミュニケーションも無く、やがて老後、次第に外出が億劫になれば、生き甲斐も少なくなり、周囲から孤立し、早死にしそうだと思ったのです。

 それで3年前に、札幌近郊のあるJR駅から近く、例えこの先、年を取って車を運転できなくなっても、JR駅まで7分間位で歩ける距離に、丁度100坪の南西向きの土地を見付ける事ができたのです。
 それで敢えて終の住処を、除雪や庭の手入れに手間がかかるけれど、好きな庭いじりができ、太陽がたっぷりと射し込む戸建てにすることに決めたのです。
 
 今までのマンションに近い防犯性を確保するために、一階の窓ガラスは割れにくい防犯ガラス、一枚ずつに防犯ブザーをつけました。そして、基本的に道路から家が見えやすいようにと、塀は50cmの高さにして、その上に低めの生け垣を植えました。車庫も扉のある箱形を止め、道路から玄関などが見通せる様に、柱と屋根だけの車庫にしました。
 (セキュリティ会社と契約する方法も考えて見ましたが、侵入者の侵入後でないと来てくれないのなら、防犯の意味がありません。)
 玄関の鍵は防犯性に優れたツーロックに換え、TVモニター式インターホンを付けました。

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《4》 収納、電灯設置、コンセント、吹き抜けなど

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 どの部屋にもたっぷりと収納場所を確保し、地震時の防災と面積の確保、掃除のしやすさを考え、置き家具が少なくて良い様にしました。

 全ての電灯は壁や天井に貼り付けるタイプとし、地震の際の危険回避をしました。かって地盤が軟弱だった札幌のH区に住んだ経験から、天井から吊すタイプの電灯の危険性を身を持って知ったからです。
 コンセントは床から50cmの位置に、スイッチは床から110cmの高さに設置してもらい、車椅子になっても使いやすい様にしました。現在でもコンセントの位置は、腰をあまり屈めなくても良いので楽だと感じています。

 また、将来、どのような家族構成になっても暮らせるように、少し余裕のある間取りにしたのです。

 さらに、私は登山を続けて来たため、数年前から膝に自信が持てなくなったので、将来、階段昇降ができなくなった時の事を考えました。その結果、いつでも玄関ホールの突き当たりにホームエレベーターを設置できるよう、予め基礎や配線をしました。そうしておけば、二階のスペースを車椅子生活になっても利用できるからです。
 当面はそこを吹き抜けのギャラリーにすることにしました。
 (工務店からは、その空間の一・二階に納戸を二つ造ったらどうかと言われましたが、既に収納は十分あるし、仮にエレベーターを造る事になった時に、納戸のドアも二階の床も取り壊す事になれば不経済なので、それなら初めから吹き抜けのままにするのが良いと考えたのです。)
 
 外断熱工法の良さの一つは、屋根が断熱されているので、吹き抜けを作って場所に広がりを持たせれる事です。
 この家の吹き抜けは、エレベーター予定ホール、階段室、二階廊下とホール、二階の主寝室(下の写真)です。
 いずれの場所にも天窓があり、朝日が射し込んだり、一日中明るかったり、主寝室には夜も街灯や月の明かりが射し込む様になっています。
 下の写真左は、二階廊下上部の南東側天窓です。写真中は、二階主寝室の天窓です。ベランダの一部も見えます。写真右は、玄関ホール突き当たりに作ったエレベーター設置予定場所です。

   

 また、壁の断熱材の厚さ分、窓枠に奥行きがあるので、好きな花を飾って冬でも楽しめます。
ただ、地震の時に鉢が落ちる事を考え、カーテンの留め具を窓枠の下から15cm上がった位置につけて貰いました。気休めかも知れませんが、そこにスズランテープを渡していざという時の落下防止策としました。(これ一つ思い付くのに数日間、考えました。)
 下の写真左は、居間から見た北東の洋室です。写真右は、南西にある居間のベランダと南東方向にとった明かり取りの窓です。

   

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《3》 バリアフリー用のスペースを

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 各室ですが、一階の台所、食堂、居間は同一平面にした回遊式で、開放感と来客時、防災時の対応のしやすさを考えました。

 高齢社会に対応する国の施策は、従来の様に高齢者を施設に入所させるよりも、これからはできるだけ在宅で介護をする方向に転換しつつあります。その方が高齢者自身の生活の質(QOL)も上がるのです。

 それで私は、できるだけ長く自分の家で生活できるような、バリアフリーの作り方にしておきたいと考えました。
 段差がない事はバリアフリーの条件の一つですが、決してそれだけでは実現しません。何よりも一定の広さを確保して、車椅子でも生活できるような家にしたいと思いました。



 台所は、車いすでも自由に動けるように、現在流行のアイランド型を止め、従来の壁付けタイプを選びました。
 居間の隣に8.3畳の洋室を設け、私の終の生活場所と考えました。(この室は隣がトイレ、その隣が洗面浴室)
 どの寝室も8畳以上にして、ベットを置いたとしても三方を歩ける様にしました。(寝たきりになった時、医者、看護婦、ヘルパーや家族がベッド側に立てるように。また、その方が介助しやすい)

 下の写真は1坪タイプの浴室ですが、元気が出るレモンカラーの浴槽にしました。
 高齢になると掃除も面倒かなと考え、壁はでき上がるまでは不安だったのですが、汚れが目立たなくて掃除し易い色を選びました。また、台所の流し台前の壁も同じ色合いにし、洗面台もグレーの砂模様にしました。別に違和感は有りません。
 
    

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《2》 家の配置、基本形、暖房方式など

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
    

 まず、建物の位置ですが、敷地は南西向きの中地なので建物をできるだけ北東に寄せました。しかし、北東側隣家との将来的な事を考えて、そちらは境界線からの位置を敢えて125cm離しました。
写真左は、前庭にコンクリートの塀を作っている途中です。右は現在の車庫と雪の庭を居間の窓越しに撮りました。
 
 家の屋根は降雪を配慮し、三角屋根にしました。雪を乗せて置く無落雪屋根は、長い間には雪の重さによって家に負担がかかると思ったのです。屋根には一気に雪が滑り落ちない様に、雪止めもつきました。
 
 家全体の形をできるだけ単純な直方体にして、断熱性、耐久性を高め、建築価格も抑えたいと考えました。

私は現在○○歳の一人暮らしで、体力も少し衰えて来ていますので、バリアフリーを考え、階段の段差は18.5cm、階段幅100cm、廊下幅は120cm、扉は全部82cm幅、浴室は1坪タイプにしました。

下の写真は階段下から見上げた明かり取りの窓です。下は一階食堂から、上は二階寝室からの明かり取りです。ガラスには飛散防止フイルムを貼りました。右のドアは台所に通じています。



 今冬の灯油価格の高騰を受け、暖房様式には一番悩みましたが、寒地住宅研究所研究員の講演を聞き、設備費、電気代を長期に見れば蓄熱式も電気温水方式も同じになると分かったので、最終的に初期の設備費用が安い電気ボイラーの電気温水システム暖房にしました。

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私が建てた外断熱・バリアフリーの家 《1》 工務店を選ぶ迄

2007年02月23日 | 暮らしと住まい・耐久消費財

 私の場合は半年間、北海道建築指導センターの指導を受けながら、自分で何十枚も平面図を書いて見て、何枚かを5人の指導建築士さんに時期をずらして指導して貰い、検討を続けました。

 幾つかの工法の業者が建てている最中の基礎や壁内部の断熱工法が分かる家を何軒も見せてもらい、最終的には外断熱法に決めて、相見積もりを取りました。
 結果的に見積もり額は、多少、高かったのですが、こちらの要望を良く聞いてくれた上に、4ヶ月間に図面を4枚書き直してくれ、その度に、膨大な見積書も作ってくれたO工務店を選びました。

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現代の経済的な収納家具・安全な家具

2007年02月17日 | 暮らしと住まい・耐久消費財
 昨年、ある建築事務所の経営者のブログの記事
 「作りつけ家具より置き家具の方がセンスが良い」
に対して書いた私のコメントです。

 『作りつけ家具というか、工務店に頼んで造作してもらう家具って高すぎるように思いましたので、私は収納の部分は、結局、スペースを取って扉だけを作ってもらい、そこに寸法や機能が合う収納ボックスを買って来て、並べたり重ねたりして目的を果たしました。
 冷蔵庫の横の細長い場所には、一個700円位のプラスチックボックスを6個積み重ねて入れ、食料品などを分別して収納しました。
 階段下の空間にも、分別するゴミ箱3個の他、プラスチックボックス大小10個を組み合わせて、効率良い物入れにしました。 押入の布団置きの中板?の高さも、衣類用のボックスを重ねたサイズから計算して決めました。
 雰囲気作りに影響する家具とは違いますが、見えない場所の収納家具は、今時はこんな安価な方法もいいなと思っています。』

 

 次の文は今回、書きたしました。
 『私の体験からすると、置き家具よりも作りつけ家具の方がスペースと安全を確保しやすく、掃除も楽なので、こどもや高齢者の住まいには良いと思います。
 一方、置き家具は、地震の際は危険なので、固定するか、できるだけ収納は作りつけるべきだと思います。
 地震を考えると各室の電灯は、天井や壁に固定したものにする方が安全です。玄関や食堂、居間などに、つり下げ式電灯を多く見かけますが、地震が強い場合には、もの凄く危険な落下物になるので避けるべきです。
 また、寝室では、高さのある家具の近くに頭を向けない方が安全だと思います。』
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