花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

父親の命日にちなんで

2021年01月05日 | 日記

1月5日は、私の父の命日である。昭和26年に39才で亡くなったから、70年忌になる。

出征先で結核になり、帰国させられてから6年間療養したが、戦中戦後は日本の医療が遅れていて、抗生物質もアメリカから輸入できず、若すぎた無念の死だった。父の死後2年経って、ストレプトマイシンが輸入されると、当時多数いた結核患者は、ようやく救命されたと聞く。

私にとっての父の面影というと、奥の8畳間に置かれたベッドに寝ていた姿、病院の小さな個室で横たわっていた姿しかない。

今のように病院に付き添い人がいない時代だったから、母親は病院でずっと付き添いをしていて、私は祖母の家や伯父の家に預けられていたから、小さい頃の母との思い出も少ない。

感染を心配したらしく、入院中の父に会いに行ったのは数回も無いが、その時父が私に「退院したら、飛行機に乗せて東京に連れて行くから。」それと「お前は病気を治す医者になれ。」と言った言葉を覚えている。「東京に行く」というのは、多分、父自身の夢だったのだろうと今になって思う。

当時は女性が働く職場は無いに等しかったので、未亡人になった30才代の母は、女学校を出た人だったが内職に頼った生活を余儀なくされ、母子家庭の我が家は本当に貧しかった。

私は高校に入った時から育英会の奨学金を借りて通学、卒業した。その3年間借りた奨学金は、2/3は無償だったが、1/3は働くようになって直ぐに返還した。高校時代は、経済的に安定できる職業に就いて母親を引き取り、最後まで面倒を見たいと勝手に思いながら一生懸命勉強した。

結婚後、母を引き取って生活を共にし出したのもつかの間、2年半後に母は肝臓の病気になって、あっという間に病死した。苦労した母親に経済的な心配のない楽しい生活を何時までもさせたいと願っていたが、長続きしなかったことが残念でたまらない。

そんな両親を見て育ったので、私は女性も例え結婚したとしても配偶者の収入だけに安住せず、不確定な人生のためには経済的な自立が必要だと信じて今までやって来た。家事、育児とフルタイムの仕事の両立がまだまだ大変だった男性優位の時代を必死で切り抜けたが、振り返ると父の早逝後の母の苦労を見て来たお陰で頑張れたし、老後の今の暮らしがある様に思う。

 ※窓辺で開花した「椿」

 

 

 

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寝室の引っ越し

2021年01月03日 | 日記

昨年の今日は、当地では雨が降っていた。それに比べると、今年は全国的に年末からの低温と日本海側の大雪で、随分違う感じを受ける。

昨日、当地の最低気温は-20度!石狩地方では珍しい極寒だ。まだ続くかと覚悟していたら、今朝は-10度程度だったのでホッとした。「地球温暖化」は本当なの?と思ったりする。

日が出て来て気温も上がって来たので、10時から昨夜2~3cm降った雪の除雪をした。この程度の雪なら除雪の内には入らないが、それでもし終わるまでに20分ほどかかり、身体を動かせて気分が良かった。

所で大晦日に、寝室の引っ越しをしたのだ。

その日の前日、寝ようとして⒉階の寝室に入ったら、ストーブはあるが暖房を入れていなかったため室温は6度しかなかった。急いでパジャマに着替えて布団に入った。足下に予め湯たんぽを入れてあったが、身体はなかなか暖まらなかった。

(昨年までは、寝る30分前にストーブを焚いて寝室を暖めていたが、今冬は膝痛のために階段の上り下りが苦痛で、ストーブを焚いていなかったのだ)

それで翌日、居間の隣の8畳間に伯母が使っていたベッドがあるので、思い切って寝具を運んで引っ越ししたわけだ。

居間は、ダイニングキッチンと続いた広い部屋だが、ガスのヒートパネルが2枚付けてあって、自動的に点火と消火を設定してあり、1日中20度以上になっている。昼間陽が差すと暑くなりすぎて消火する事も多い。

間仕切りの2枚の引き戸を開けると隣のその部屋も直ぐに同じ気温になる。一晩中、気分良くぐっすりと眠られるので、この2日間はすっかり寝坊してしまった。

伯母は、使っていたこの部屋で、きっと気持ち良く過ごしてくれていたに違いないと今更ながら思う。昨夜は掛け時計も壁に掛け、当座の着替えをクローゼットに持参した。

浴室と脱衣場などで気温差が大き過ぎると、高齢者は「ヒートショック」を起こして倒れる事があるというので、やはり気を付けるべきだ。我が家の脱衣場は、ガスのヒートパネルが小さくそれだけでは寒いので、入浴前20分ほどポット式の石油ストーブを焚いている。やはり、北国の冬は、暖かさが何よりのご馳走だと痛感させられている。

 ※居間の窓辺で咲き出した「アザレア」

     

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新しい年の初めに思うこと

2021年01月02日 | 日記

昨年は世界中が「新型コロナ」に明け暮れ、自粛とマスク生活、人との密接な交流を避け、手洗い、消毒を入念にする前代未聞の1年だった。

世界中で大勢の感染者が回復せずに亡くなった。家族であっても感染を避けるために、見舞いも介助も、重症者へ最後の言葉をかけて手に触れる事さえできなかった。

人々は年末には感染の拡大も下火になって欲しいと願ったが、新たなウイルスの変異が見つかり、今は第3波の様相を呈している。

年末からはイギリス、アメリカで新しく開発された「新型コロナウイルス」のワクチンが投与されだした。その効果はまだ明らかでは無い。

このウイルスは、絶滅することは無いという。ならばこの先、確実に私達は今までの生活を変えなければならないだろう。

仕事、教育、物資の販売などの分野で、インターネットを介したやりとりが広く実行されるようになったが、やはり直接、人間が顔を突き合わせ、表情を見て感情や考えを推察し、言葉のやり取りをしながら「ホモ・サピエンス」特有の「協力しながら事を進める」という従来のやり方が、効果的、人間的だという意見も多い。私もそう思う。

家族の生活は、どう変えれば良いか。経済格差によって、貧困層は生活スペースが不十分な事が多い。特に低開発国の、1つの空間に数人が寝起きしなければならない生活を、何とか変えて行かなければならないだろう。

また、清潔な水の確保ができないとか、産業が未発達で教育も未整備だという国や地域の改革も必要だ。また、抵抗力を保持するための十分な衣食住も大切だし、命を守るための最低の医療を保証することも大切だ。

この1年間は、先進国と言えどもコロナの感染者を受け入れて医療処置をするベッドや医療従事者が不足している現状なのだから、世界的にパンデミックが起きた場合の対策が不十分だったのは、確かだと思う。世界中に感染者を治療するハードとソフト、そして今始まったワクチン接種を必要とする全ての人に届けなければならないと思う。

それには各国の「社会福祉政策」と「医療政策」「経済政策」などを待つ以外にはないのだが、感染が世界的な規模で拡大する今は、遠い国だからとか、低開発国だから等と言って、先進国が見ないふりをすることができなくなっている。

「新型コロナ」は、今まで国内、国外に当たり前にあった「格差」の解決も、本当に重要だという事に気づかさせてくれている。

今年は、何とか平穏な生活を国内だけではなく、世界中に取り戻したいと強く望む。このような国民の願望を受け止めて、沢山の財政を運用する各国政府、特に主要国の政府、そしてWHO、ユニセフ、国連が、状況を分析するだけでは無く、今後の対策を真剣に英知を集めて考え、実行して欲しいと願っている。

つい書き出したら、最後は大事になってしまったけれど、新年に当たって望む今の私の偽らざる気持ちだ。

個人的には、1年経っても十分に回復していない左膝の痛みと、時々胸が固まるようになる症状、高血圧と糖尿病を何とか改善したいこと、そして、小さな喜びを見つける日々をおくりたいと願っている。

また1年、このブログを通して、ささやかながら暖かなお付き合いをお願いいたします。

 

 

 

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今冬初の本格的な除雪

2020年12月21日 | 日記

昨日は、朝9時から降り出した雪がやがて本降りとなり、午後2時には止んだが、外に出てみたら5時間でほぼ30cm程に積もっていた。これでは長靴以上の雪なので歩けない。しかし、一昨日から本州の日本海側や山間部に降った豪雪と比べたら、降った内に入らないかもと思った。

午後の最高気温は-4度ほどにしかなっていなかったので、身支度を調えて玄関前から除雪専用の「プラスチックショベル」で除雪開始。意外と軽い雪だった。雪を庭に投げたので、今まで裸で凍えていた薔薇の木々の根元にやっと雪布団を掛けられた。

最後、車庫前、歩道の雪は、小型の「ママさんダンプ」を使った。約1時間で何とか除雪終了。寒いのに汗をかいた。

今朝、体重を計ったら、何と600gも減っていて驚いた。除雪効果かも知れない。足腰も痛くないので助かった。

昨冬は、本格的な除雪は3回と少なかったのを覚えているが、さて今冬はいかに?

※下は、近所の松の雪だ。右と下は、我が家の庭と玄関前。どれも今朝の写真だ。今朝は7時の気温が-17度と寒く、カメラを持って外に出たら空気が肌にビリビリと突き刺さるような感触だった。こんな日は、交通整理や土木、電気、建設業者などの苦労を思う。

 

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公園の紅葉と渡り鳥

2020年10月22日 | 日記

いつも散歩に行く公園で、周りの紅葉が進み出した。銀杏の葉も黄色く成ってきている。薄暗くなる時間だったが、今日の色は明日は違う色になっているだろうと思ってシャッターを切った。

「ナナカマド」の実が真っ赤だ。

落ち葉も美しかった。この時期だけに見ることができる静かなたたずまいだ。

暫くすると渡り鳥の鳴き交わす声が聞こえてきた。もう薄暗くなった空を見上げて、どこを飛んでいるか探す内に、見つけてみたらもの凄く遠い。でもカメラを持っていたのでズームを最大にして写した。それでもこんなに遠かったので鳥は小さい。多分首が長い「オオハクチョウ」だろう。珍しく1列で飛んでいった。

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渡り鳥が帰ってきた

2020年10月10日 | 日記

春に日本から北に帰り、シベリア当たりで繁殖を済ませた渡り鳥達がまた帰ってくる季節になった。

今朝は7~8度の気温だったが、7時半に庭に出て仕事を始めようとしていたら、懐かしい聞き覚えがある鳥の鳴き声で空を見た。真っ青の空の中を60羽ほどのV字型になった群れが一団、南に向かって飛んでいた。まもなくもう一団が来た。

かなり上空なのではっきりとは鳥の姿は分からないが、確かに北国から帰ってきたのだ。この群れの中には、今春誕生した若鳥も沢山居ることだろう。朝夕、急に寒くなったはずだ。

これからはしばらく、毎日のように鳴き交わす声に続いてV字の群れで飛ぶ姿が見られるだろう。自然の摂理に従って毎年何千キロも渡る渡り鳥のたくましい姿は、私には神々しくも見える。

話は変わるが、前に1羽の「カササギ」の写真を撮って記事にしたが、それ以来つがいを見つけることができなかったので心配していた。

一昨日、前にも見かけた近所の公園を通ると、高い木の頂上で鳴いている1羽の「カササギ」を見つけた。もう一羽居ないだろうかと探すと、30mほども離れた高い木の上で鳴き交わすもう一羽の「カササギ」を見つけた。2羽とも元気で居たのだ。本当に良かった。このつがいは、今年の冬もこのあたりで冬越しをするのだろう。

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洗面台下の配水管が外れた(2)

2020年10月01日 | 日記

昨日、この家を建てた建築屋の担当者が来宅して、洗面台下を見てくれた。ネジを改めて締め直し、汚れも綺麗に除去してくれた。これで安心した。彼は独身だが、お礼に「手作りマスク」2枚と、洗面台下にあった「化粧石けん1箱」を差し上げた。昼ご飯も勧めたが、行くところがあると言って断られた。

話は違うが、一昨日午後、88才の近所の知人がふらふらと歩いているのに会ったので、聞くと、「先日から目眩(まい)がするので、病院に行って今、点滴をしてもらって来た所だ。」と話す。目眩がするのに歩いて病院まで往復したとは驚いた。「今度からそんな時は、私に声を掛けて下さいね。歩いている途中で倒れたら困るので……」と話した。

作業所に通っている息子さんが夕方には帰宅するだろうしと思い、たまたま冷蔵庫に「エビ」があったので、そのほかに「油揚げ」「ひじき」「にんじん」「シメジ」を入れた「炊き込み飯」を炊き、届けた。息子さんが帰っていて「有り難うございます。」と言って受け取ってもらった。知人は休んでいるようだった。

昨日、別の用事で家に行ってみると、知人は起きていた。大分目眩は落ち着いたと言う。私は改めてもう一度、「今度また目眩がしたら、電話を掛けて下さい。車はいつも家に置いてあるだけだから、病院へ送りますから。」と話した。

息子さんは、朝も「炊き込み飯」を食べて出かけたと言っていた。

一人暮らしの高齢者が増えているので、地域でお互いに見守る事が大切になって来て居ることを再確認した出来事だった。

  ※歩道から見た土手のダリア

 

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伯母の夢を見た

2020年08月20日 | 日記

今朝明け方、久し振りで伯母の夢を見た。

【伯母と二人で買い物に出て、帰る時にバスに乗った。伯母が住んでいた家の傍のバス停に着いたので、下りようとして横の伯母に手を差し延べた。すると伯母がいないのだ。そうだ。伯母を乗ったバス停に置いてきてしまった様だと気づく。

でも大丈夫だ。伯母は迎えに戻らなくてもタクシーで来るに違いないと考える。

だが、目が見えなくなった伯母が、どうやって一人でタクシーに乗れるのだ。お金も全く持っていないのにと、伯母の事を心配して絶望的になる】

そこで目が覚めた。余りにもはっきりとしている夢だったので、すぐには夢だったとは思えなかった。

どうしてこんな夢を見たのだろうか。お盆の終わりに夢に来てくれたのだろうか。分からないが、夢でも会えて嬉しかった。

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今年も「水芭蕉」」に会えた

2020年04月22日 | 日記

昨年は、4月20日に友人と水芭蕉公園に行き、満開の「水芭蕉」を見た。

今年は雪解けが早かったので、「水芭蕉」の開花も早いのではと思っていたが、20日は結構な雨降りだったので行くのを止め、昨日、21日の午前中に友人と誘い合って見に行った。

霧雨が降っていたが「水芭蕉」はまだ5分咲き程度。まだこれからという感じに思えた。雪解けが早くても、気温が低い日が続いていからかも知れない。しかし、雨の日の後なので水が澄んでいて、色も綺麗だった。

開花している栗色の「座禅草」はまだ少なく、その大半は遊歩道からは背中しか見えなかった。

2年前には、ここに伯母も連れて来て、「夏の思い出」の歌を大声で合唱した事が思い出された。

今年は世界中が「新型コロナ」騒動のまっただ中で、毎日暗いニュースばかりだが、霧雨の中に佇む水芭蕉を今年も友人と鑑賞でき、少しだけ心が癒やされる良い時間を持てた。

まだ「新型コロナ」感染の終息が見えない今は、身近なところでささやかな楽しみを見いだすことが大切だと思えた。

 

 

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手作りマスクに挑戦してみた

2020年03月18日 | 日記

この所、外出する際はマスクを着けるのを忘れないようにしているし、外で出会う人達も、律儀にほとんどマスクをしている。

ところが「化学繊維」でできている「使い捨てマスク」は、吸湿性が無いのでマスク内に呼気の水蒸気が溜まり、べたべたする上に息苦しい。

その点、昔からあった「ガーゼのマスク」は通気性が抜群で、気分良くつけていられるが、家には2個ほどしか買い置きがない。今では薬局やスーパーでも、マスク自体が棚から消えていて、勿論ガーゼ製もいつ入荷するか分からないという。

また、私と同様、手作りしたい人達が増えているらしく、ガーゼの生地もゴム紐も品薄だ。

以前ベトナムに行った時、オートバイが多く排気ガスで大気汚染がすざましい中、オートバイの運転手とそれに同乗している1~3人は、色も柄もとりどりのマスクをしていたのを見た。

その頃、日本ではマスクと言えば白が定番で、それ以外は売られていなかったので、私も白以外のユニークなマスクをして見たくなり、生地を物色したりした事があったが、その時は緊急性がなかったので、結局作らなかった。

今回は、「コロナウイルス」による感染の危険性がいつ収束するかが分からない。気分良くマスクをしていたいので、いよいよ自分で手作りする事にした。

一昨日の夜、箪笥の中を探したら、33cm幅の「ガーゼ」の生地が2m程出て来た。「晒し木綿」も同じ位あった。どちらもマスクの「裏地」として使える。「表生地」を探したら、木綿の「ネル地」でできた寝具の新しい「襟掛け」があった。色は青で、ボーダーの花柄がついているが、使えそうだ。

違う生地同士を表裏にしてマスクを作りたいので、昨日朝、生地の全てを地直しするため、2時間ほど水を吸わせて繊維を収縮させてから、干してアイロンを掛けた。

次に「マスクの型紙」が必要だが、家にあった立体的に作られている「使い捨てマスク」の形が気に入っていたので、それを参考にして自分で簡単な型紙を作成した。この形は、折りたたみ式のと違って、生地が少ししかいらないマスクだ。

いよいよ「ネル地」と「ガーゼ地」を中表にあわせ、その上に型紙を置き、印をつけてから縫い代分を付けて2枚一緒にカットした。

反対側の生地にも簡単に印をつけて、縫い合わせて行った。

初めの1枚は完成させるまで時間が掛かったが、2枚目からは30分前後で完成できる様になった。また、裁ち方を少し変えると、サイズも大中小のものができた。

結局、昨日は9個、今日は7個で、計16個を作った。「ネル地」の使う場所によって、色々な花柄になった。

それに昨日買って来た細目のゴムひもを通して完成させ、半分は近所へもお裾分けした。(無地にできたマスクは、男性も使えるかもしれないと思って差し上げた)

すると友人が、「二重ガーゼ」でできた「タオル」が使えないかと届けに来てくれた。

早速作ってみたが、生地が厚過ぎて私のミシンでは上手く縫えないのだ。何とか2個縫い上げて見た。なかなか着け心地良いマスクにはなったが、縫いづらく時間も掛かるので、それ以上作るのは一旦諦めた。

久し振りのミシン踏みで、肩が凝って来た。それに細かな仕事をし続けたので、眼も凄く疲れた。

当面、手元に9個残っているので、暫くは洗いながら大切に使おうと思っている。

マスクは色々な形の物があるので、その内また、別の色や柄の生地を見つけて、作って見たいと思っている。

(窓ガラスに張っているシールの絵柄が、型紙に反射してしまった)

 

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多忙だった年末年始

2020年01月05日 | 日記

あっという間に今日で新年も5日目となった。今年もどうか宜しくお願いします。またブログを通してお互いに交流し、私のセカンドライフを見守ってくだされば嬉しいです。

例年なら年末には制作して出す私の年賀状だが、伯母が亡くなったので新年の挨拶を遠慮して、15日に「寒中見舞い状」を出す事にし、デザインと文章は既に作って置いた。他に年末に来宅した家族の年賀状を従姉に続いてデザインして85枚印刷した。

今年の抱負は、第一に「健康保持」である。足腰の筋力の衰えを感じているので、努力したいと思う。

第二は、続けて「庭仕事をしっかりとすること」だ。昨年の内に考えて移植をして置いた薔薇や宿根草が、しっかりと育ち、開花してくれるように植物たちを世話したい。

第三は、ネコブ病菌に感染した菜園で、今年も工夫しながら「色々な野菜を育てる」ことだ。

ネコブ病に強い「ホウレン草」「サラダ菜」「春菊」「葱」「大根」「トマト」「豆類」を主として配置し、秋作にはまた「CR白菜」などを種から育てたいと思っている。

第四は、足腰に自信が戻ったら「再び海外旅行に行きたい」。この2~3日、旅行社から届くカタログを見て、検討している。

                               

他に年末は「お節料理」の準備のための買い物、料理に3日間程要したが、全てやり終えた。

にこの間に作った料理を記録の意味で載せて置きたい。

31日は、娘が札幌から寿司の上ネタを買って来てくれたので、お陰さまで年越しの主役の「生散らし寿司」を作ってたっぷり食べた。その他「旨煮」、保存してある大根で「ナマス」、そして私が収穫した金時豆を圧力鍋で煮た「煮豆」、それに「ホウレン草のお浸し」などを供した。

31日が驚くほど暖かく雨が降り、雪が溶けたので、菜園に残しておいた「秋蒔きホウレン草」を収穫して来て「お浸し」を作る事ができた。珍しいことだった。

新年の朝食は、年末に食べられなかった「蕎麦」と、花友さんが作って届けてくれた「餅」で「雑煮」を作り、その他の「お節料理」と共に食べた。勿論、仏壇前にも供えた。夕食は「十勝牛」の「すき焼き」と「刺身」などを供して喜ばれた。

年末に「昆布巻き」を作ろうとして、用意していた「日高昆布」を水で戻してみたが幅が狭い。それで急遽、圧力鍋で「昆布の佃煮」を作った。最後にたっぷりと鰹節を加えたら柔らかく美味しくできて、家族に好評だったし、娘が帰る時に持たせたので、また後日作った。沢山あった昆布が、皆なくなった。

2日朝は、「赤飯」を作った。初めて圧力鍋で「赤飯」を炊いてみたが、レシピの吸水時間が短過ぎ、案の定固めに出来上がった。夜は「寄せ鍋」を作った。

3日朝は、色々な「お節料理」の残り物を処理した。夜は私だけだったので、残りものを食べた。

4日目は、「蜜柑」の残りを娘に持たせてしまったので、新聞の折り込み広告にあった初売り出しの「蜜柑」を買出しに行った。売り出し時間より少し早めに店に着いたので、少なかった目玉商品を買うことができた。美味しい「蜜柑」だ。

夜は、家族がいたので、「十勝牛」を買い足して、また「すき焼き」をした。

5日目は、再度「赤飯」に挑戦した。もち米の浸水する時間を長くしてから蒸した。圧力鍋よりもふっくらと美味しく炊けた。

夕食には「おでん」を作った。保存してある「秋大根」が柔らかく美味しかった。また、「鰯」の煮付けをしたが美味しかった。

今日辺りからまた日常に戻る。今朝7時の外気温は-8度だった。その後は本格的な雪になって、20cmほど積もり、除雪を2回した。暦どおりの真冬だが、今年も心は縮まらずに前を向いて明るく行きたいと思っている。                           

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年の瀬にあたり

2019年12月31日 | 日記

私のブログにいつも親身になって励ましの「コメント」を下さる方々、また時々ブログに立ち寄ってくれて私の生活を見守ってくれた皆さん、皆さんに今年も支えられながら何とかブログの記事を書き続け、私自身も元気で年末を迎えることができて安堵している。有難うございました。

私の今年の一番の出来事は、介護して来た99歳の伯母を2月に看取り、無事に事後の処理を済ませることができたことである。

その後は、前の様に庭仕事が中心の生活に戻ったが、いつも傍に伯母がいてくれるような感覚で暮らして来た。もう話し合う事はできないので、寂しい。


一方、今年は近年では一番、気候が良かった。狭く、「アブラナ科」の作物に生育不良の被害が出る病原菌の「ネコブ病菌」が繁殖した畑で、今年も工夫しながら種を蒔いたり、苗を育てたりしながら作物を育てたが、ホウレン草、茎ブロッコリー、トマト、春菊の生育が良かった。

キャベツは青虫に餌を提供した形になった。無農薬栽培では、防虫ネットを張らないと難しいことが身に染みた。

白菜は、CR(ネコブ病耐性)の種から苗を育てたので、外側は虫に食べられたが内側は大丈夫だった。漬物にしたり、鍋物の具材にしたりと利用できた。来年は、やはり防虫ネットを張って育てたいと思っている。

昨日、今朝と珍しく雨が降り、菜園に残っていたホウレン草(9月半ばに種蒔きをしたもの)が雪の下から顔を出したので収穫してゆでた。この時期のホウレン草は貴重だ。ネコブ菌の菜園でも、ホウレン草は問題なく育つので、来年も春と秋の2回は種を蒔きたい。

大根もアブラナ科だが、ネコブ病の畑では菌を少なくすることができる貴重な作物。じゃが芋の跡地で育てた秋大根の内、半分は干して甘酢付けにした。残りは、ビニール袋に入れて室内の涼しい場所で保存しているが、正月料理に活躍してくれているし、2月頃までは食べられそうだ。

隠元豆の跡地では、聖護院大根を育てた。干して漬物にしたが、皆食べてしまった。

一方、薔薇は、年々木がしっかりと育つので、花の開花後は枝を適当に剪定し、11月の初めまで多くの花を咲かせられた。

[秋以降に土壌に肥料分が多く残ると、薔薇の冬の休眠ができ難くなって、冬季に枯れ易い]と知ったので、9月以降は化成肥料の施肥を中止し、堆肥と液肥だけにしたが問題がなかった。来年もこのやり方で行こうと思う。


私自身の今年の一番の懸念は、足腰の筋力低下だった。7月下旬に始めたウオーキングは、先日丸5ヶ月を迎え、歩くことには少し自信が付いて来た。今後は無理をせずにウオーキングを続けたいと思う。

近所の方々には、色々な野菜を収穫する度に例年通り、お裾分け分を利用して貰って来たが、今年も色々と交流できて感謝している。

特に花友さんには、本当にお世話になり有りがたかった。数日前に手作りの美味しい餡餅を沢山戴いた。また一昨日は、角餅も沢山戴いた。市販品とは違って水分含有量が少ないので、もちもちしていて本当に美味しい。汁粉、雑煮、黄な粉餅などを作って楽しみたい。

来年も健康を維持しながら、楽しく庭仕事をしたいと思っているので、どうかまた宜しくお願いしたい。

                                         

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がん検診で札幌へ

2019年12月18日 | 日記

私の「乳癌」の健診は、今は1年に1回だ。その日が昨日の午後だった。

大雪なら大変だと思っていたが朝から気温がプラスになり、凍りついた雪の表面だけが溶け出して、道路は危険なツルツル路面になっていた。

健診までの午前中に久し振りに親友に会うため早めに家を出たが、JR駅までの道はとても危険で、転ばないように細心の注意を払って歩いた。こんな状態の道路は、今年初めてだった。

友人には「蜜柑」1袋と花友さんが前夜届けてくれた「手作りの餡餅」のお裾分けを手土産にした。

待ち合わせで会ってから、JR札幌駅地下通路にある「イタリアンレストラン」に入ってお喋りをした。

友人が、じゃが芋を同じ場所で作り続けていたら、今年は全部ピンポン玉みたいな大きさだったと言うので、「連作したら駄目だよ。畑作りの基礎だよ。」と教えた。

また、友人は何と5日程前に、凍結路面で仰向けに転倒し、頭を強く打ちつけて、「脳神経外科」に検査に行ったそうだ。

CTの画像では何ともないと言われたが、頭痛が続いていると話すので心配だ。高齢者はバランス感覚が悪くなっているので、本当に注意しなければならない。

                                     

友人と別れてから、地下鉄で病院に行った。 

受付を済ましてから「マンモグラフィ検査室」に行って写真を撮ってもらった。技師の女性が「機械が新しくなりました。」と言って小奇麗な機械の傍に案内された。しかし、乳房を左右、上下から透明な板で強く挟んで撮影する原理は同じなので、私には昨日の方が失神するのではと思ったほど痛かった。

「乳腺外科」は相変わらず混んでいたが、私の診察順番は1時間で来た。

担当医師が変っていたが、今回も女性だった。

昨年と今回の「マンモグラフィ」画像を比較しながら見せられ、また、ベッドに寝て「乳房の触診」を受けた後、「何も問題はありません。」と言われてホッとした。

しかし、「自分でも時々触れて見て、しこりがあれば来て下さい。」と言われた。私の「乳癌」の組織は、「女性ホルモン」には反応せず、「ハーセプチン」という成分に反応する再発し易いタイプなので、20年位は気を抜けないと言われ、改めて自覚させられた。次回はまた1年後だ。

予定よりも早めに病院を出たので、もう一人の友人を訪ねることにした。以前私と畑を一緒に作ったり、国内旅行に行ったりしていた友人だが、その後60代中頃に「認知症」になり、今は一人で住んでいたマンションを引き払って「優良老人ホーム」に入居しているのだ。

何とか場所を探し当てて「優良老人ホーム」に辿り着いたが、残念なことに彼女は「デイサービス」に出かけていて留守だった。

受付の女性に、「デイサービスには、週に何回行っていますか?」「彼女は元気にしていますか?」などと聞いたが、「個人のプライバシーにはお答えできません。」の一点張りだった。

仕方が無いので、簡単な手紙を書き、「帰って来たら渡して欲しい。」と頼んで来た。

夜、彼女から電話が来た。少しぎこちない話し方だったが、私の事を思い出してくれたのだろうと思った。

ところが1時間後に、また電話が来た。先程私に掛けたことを忘れて、再度かけた風だった。それでも数年ぶりで聞いた友人の声は懐かしかった。それに心配していたよりも元気そうだったので、少し安心した。

                      

 

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交通整理の男性の話から

2019年12月09日 | 日記

毎日市内の限られた地域をうろうろしていると、いつも決まった人達に会う。それは電気工事や道路工事をしている人達だ。

彼らの工事の場所は時々変るが、クレーン車を路上に止めて高い電柱に上がり、そこで工事をしている人がいるかと思うと、傍には交通整理をする人が必ずいる。

今朝も郊外の公園に行くと、いつも少し距離を置いて何度も出会って来た高齢の男性が、電気工事の傍で交通整理をしていた。

私は「こんにちは。」「寒い中、お疲れ様です。今まで何度も会いましたね。」というと、「自分は会う人を覚えていないけど、通る人は覚えてくれるみたいだね。」という。

私が「年齢と共に、だんだん寒さが体に応えるようになりますね。」と話したら、彼が「仕方なく働いているんだ。」「60歳で退職して家に居たけど、その内、毎日パチンコに通うようになったんだ。そうしたら、だんだん足が弱って歩けなくなってしまってさ。仕方が無いので、この仕事をし始めたんだ。」と言うのだ。

顔のしわが深いので、私よりも5歳以上は年齢が上だろうと思っていたが、聞いて見るとほぼ同年齢だった。

そして「お宅さんが元気に歩いていることを、家族は喜んでいるでしょう。」と言われた。

「お互いに体に気をつけて頑張りましょう。」と言って別れた。

ところで、今春亡くなった伯母の連れ合いだった私の亡き伯父は、朝から晩まで居間のソファーに座ったまま、TVを見たり、妻(伯母)に「おい、お茶。」「おい、新聞。」などと指図していて、自分ではトイレ位しか歩いて行かず、ソファーでうたた寝をしてしまう生活を何年もしていた。するとその内、とうとうソファーから立てなくなり、寝たきりになって、最後は94歳で亡くなったのを思い出した。

年々、日本人の「平均寿命」は伸びているが、他人の手助けを受けなくても一人で自立して生活できる「健康寿命」はそんなに伸びていないという。今日は「健康寿命」を維持する事の難しさと、一人ひとりの努力の大切さを考えさせられた。

今日の10時過ぎの気温は-3度だったが、風が弱いので歩きやすかった。9,000歩、5、6kmのウオーキングだった。

  (追 記) 厚生労働省2019年発表 

   「2018年 日本人の平均寿命」 男性81.25歳 女性87.32歳

   「2013年 日本人の健康寿命」  〃 71.19歳 女性74.21歳      

また、2016年の「都道府県別健康寿命」の中で、「北海道」は男性25位(71.98歳) 女性45位(73.77歳)だったそうだ。

私が考えた「北海道」の「健康寿命」が短い原因は、まず、北国は半年間雪に閉ざされるため、外で運動や活動をする機会が減少するからではないだろうか。

そればかりではない。冬季は家の中に引き篭もる人が大半なので、隣近所に住む人とも滅多に顔を合わす事はなくなる。なので、高齢者世帯や一人暮らしの人は、他人と言葉を交わしたり、交流する機会が極端に減って孤立してしまいがちだ。その結果、精神的な「孤独感」に陥ったり、「欝」場合によっては「認知症」になる高齢者も多いと聞く。

また、北海道の世帯別職業で昔から多い農業や水産業などの「第一次産業」に従事する人を中心に比較的「塩辛い味を好む人が多い」ため、高血圧や脳卒中などになる人が他府県よりも多いこともあるのかもしれない。 

地方自治体には、こんな北海道の高齢者が抱える問題点を改善する方策を、一日も早く打ち出して欲しい。

特に冬場、体力維持をはかるための工夫や施設が必要だ。そうでなければ、介護を受けたり、寝たきりになる高齢者が、他府県よりもずっと多く、それも長期になりがちなのが分かっているのだから。                                                                      

 

      

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駅で感心な高校生に会う

2019年12月08日 | 日記

今朝は洗濯をして、それを室内に干してから10時半にウオーキングに出た。

朝の気温は-8度程度だったと思うが、太陽が出れば徐々に気温は上がる。だから、これからは昼近くのウオーキングが良いのかも知れない。

風が吹くとほほに当る風は冷たいが、コートの「フード」を被ると風が傍を吹き抜けなくなって冷たさを感じない。「フード」は雨除けだけではなく、風除けとしてもかなり役立つことが分かった。

また、風が吹きすさぶ場所でゲームをする時は、できるだけ風を背中で受ける向きに立ってスマホをいじるようにしている。電柱が1本あれば、その影に立つだけでも暖かく感じられる。

最近は足元をしっかり確かめながら歩くようになった。雪が残っていて、アイスバーンになっている場所は、滑りやすいので除けるようにしているからだ。反対に前後、周囲への目配りが減るので、交通事故などに会わない様に注意している。

ところで、毎日、JRの駅にも寄るのだが、今日、「待ち合い室」に入ると、女子高校生が数人いて、楽しそうに話をしていた。彼女達がいなくなって少しすると男子高校生らしい人が入って来た。彼は黒っぽい財布らしきものを私に見せて、「あなたのではありませんか?」と言う。「違います。」と答えたら、駅の切符売り場に行って駅員さんに渡してから、また待ち合い室に戻って来た。

やがて構内放送が掛かった。財布の中に名前が分かるものが入っていたらしく、名前で人を呼び出していた。

私は彼に「少し前まで女子高校生らしい人が何人かいたので、その中の誰かが落としたのかも知れないですね。それにしても良い事をしましたね。最近は色々な人がいるのに。」と言った。彼はニコニコしていた。何か清々しい気持ちにさせられた。

今日は6.1km、10,000歩だった。

                       

 

 

 

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