花好き・旅好き80代北国女性の日記(ブログ開設18年目)

趣味はガーデニングと家庭菜園、外国旅行だが、新型コロナ禍と膝の不調、円安が重なり、今は外国行きは見合わせている。

アメリカ西海岸・国立公園巡りの旅(5)

2010年06月23日 | 海外旅行「北アメリカⅠ」西海岸国立公園

《アンテロープキャニオンからモニュメントバレーへ》
4日目の午後は「ブライスキャニオン国立公園」からバスで3時間乗り、アリゾナ州のインディアン・ナバホ族の居留区にある「アンテロープキャニオン」観光をした。

ここでアメリカインディアンの事に少し触れたい。
1492年にコロンブスが新大陸を発見した時、現在のカナダ、アメリカ地域には、すでに700~1200万人の先住民族がいて、600種以上の言語があったと言われている。
しかし、2000年の国勢調査では、「アメリカインディアンおよびアラスカ先住民」の単独人種は248万人、「単独もしくは他の人種との混血」と回答したのは412万人で、全人口のわずか1.5%に過ぎなかった。
15世紀後半にいた先住民は、ヨーロッパ人が移住してくると、武器で殺戮されたり、伝染病を移されたりして人口は急減し、その80%が殺され、20%が生き残ったという。
19世紀になって白人が西部の開拓をするようになると、少数の生き残った先住民も西部、南部に追いやられ、大半は特別な居留区内に閉じ込められて行った。(「アメリカ合衆国がよ~くわかる本」による)
今でも彼らは、文化的経済的、そしてアメリカ市民としてもいわれのない差別を受けている。新大陸発見以来500年の歴史は、先住民族インディアンの血と悲しみの歴史なのである。

「アンテロープキャニオン」は、現在、先住民の中で最も人口が多いナバホ族の収入源になっている公園である。
入り口にあるペイジの町の郊外にある管理事務所で入場料を払い、バスを降りてナバホ族のジープに乗り込んでから5~6分、道のない砂漠を走ると着いた。
そこは、たまたま大量に降った雨が狭い谷間を流れる時に砂岩の大地を侵食してできた自然の造形物で、偶然に1931年に発見されたという。
入り口①(右の棒は、私達が乗ったジープ荷台の支え棒)から出口②までの距離は400m、頭上までの高さは最大40mあり、頭上にあいた数箇所の穴から射し込む太陽光線が、美しい陰影を作り出し、写真愛好家の間で有名になったのだ。
しかし以前、観光中に突然、鉄砲水が流れ込み、中に居た11人もの人が遭難する事故も起きている危険な場所なのである。

 ① ②

渓谷内や出口で運転手が笛を吹いたり小太鼓をならして演奏してくれた。また、案内役の中年の女性は、中のカメラポイントを教えてくれたり、砂を投げ上げて、それが流れ落ちる美しい写真を撮らせてくれた。③④⑤⑥

 ③ ④ 

 ⑤

観光後、またバスで3時間走った後、「モニュメントバレー」に到着した。
ここは合衆国の南西部のユタ州南部からアリゾナ州北部に渡る広大な地域に、映画やCMなどで見た事がある記念碑(モニュメント)の様な岩山が並んでいる場所だ。
この公園もナバホ族の居留区内にあってアメリカ合衆国の国立公園にはなっていない。私たちは1人5ドルを支払って入場し、その中に2年前に建った「ビューホテル」⑦に泊まった。

ガイドの説明では、ナバホ族は第2次世界大戦で暗号の通信にナバホ語を用いて活躍したということで、こんなに広い居住区を与えられたそうである。
しかし私が見た所では、全く不毛の大地が続いていて、植物栽培や農業は難しく、生活を観光に頼らざるを得ないような土地だった。
ナバホの家々が点在していたが、どの家にも傍には冬用の住まいとしてナバホ族特有の土饅頭型の「ホーガン」⑧が造られていた。
ホテルの庭に展示されていた「ホーガン」は、入り口の戸、骨組みは木材で作られ、その上にすっぽり土を掛けて覆った1室住居で、真ん中に暖房用の煙突が立っていた。(⑥⑦共、朝日が昇った直後に写したもの)

 ⑦ ⑧

ナバホ族が自治権を持って支配する居留区には「禁酒法」があって、アルコール類の販売も飲酒も禁じられていた。私たちも昼食、夕食ともアルコール抜きだったが、ホテルの個室内なら良いと言われた。



コメント (2)
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