「脳梗塞」を起こし5月からの入院生活が7ヶ月に成ろうとしている伯母が、一昨日病院のベッドの上で満99歳の白寿を迎えた。
この間「誤嚥性肺炎」「尿管結石」「狭心症発作」を起こしたが、病院が直ぐに原因を見つけて処置してくれたお陰で、それら全ての病気を乗り越えた。
長期の入院で体中の筋肉が少なくなり、痩せたが、食事はミキサーに掛けた流動食を自分で食べている。
また、時々物忘れはあるが、基本的に頭ははっきりとしている。
誕生日の前日、何か欲しいものや、して欲しい事があるかを訊ねると、伯母は「自分はもう何も要らないけど、毎日世話になっている病院の看護婦さん達に日頃のお礼をしたい。」という。
それで私は、皆さんに行き渡るようにと「蜜柑」を2箱用意して、誕生日に事務室に届けた。
伯母に報告すると、凄く喜んでいた。
小柄な身体の伯母が99歳を迎える事ができたのは、先祖から受け継いだ「長寿遺伝子」と、伯母が粗食に耐えながらも、小さい時から「ずっと働き通した生活習慣」があったからだと思う。
「伯母の人生」 を大まかに記録して置く。(同居し出してから聞き書きしたものだ)
誕生日は、大正8年(1919年)12月12日(金)北海道空知地方の農家の次女として生まれた。
この年は、1月に「ロシア・ソビエト社会主義共和国」が樹立する一方で、第一次世界大戦の終結に関する「パリ講和会議」が開かれた。
3月には、朝鮮で日本の植民地支配に抵抗する「3・1独立運動」が起きた。4月に「関東軍」が設置された。
10月には、孫文らが「中国国民党」を創立している。
しかし、伯母は小学生の頃に父親を亡くした。かまどでの炊飯は小学2年生の時からやり続けた。
4人の幼い子どもがいて一人で農業をやれなくなった母親は、他家に再婚し、そこで農業を営んだ。それで自分は小学校3年生の途中で学校を止めて、親戚に「子守」に出た。他の兄弟姉妹も、祖父母の所と母親の所に分けられた。
「子守」をしていた2年半後には祖父母の家に引き取られて小学校6年に入ったが、また途中でやめて母親の再婚先に引き取られ、そこで母親と暮らす事になった。
結婚するまで母の家にいて、農作業や家事を手伝った。
昭和16年(1941年)、23歳の時、親が結婚を決めて来た。
3月に結婚したが、義父からは「何があっても、決して婚家から戻って来たら駄目だ。」と言われた。
密かに好きな人がいたので、前の晩は泣き通した。
相手の顔も知らずに結婚したが、夫となった人はやさしい人で安心した。
婚家は大家族の農家だった。結婚の翌朝から10人分の食事作りをした。
この年の12月8日、日本がアメリカに宣戦布告して、「日米が開戦状態」になった。
夫は、結婚前にも1度戦争に行ったらしいが、結婚した年とその後と更に2回、計3回も兵隊に行った。心配したが、無事に戻って来てくれた。
しかしその後も、炭鉱に「徴用」された。
水道は無かったので「井戸」端でしていた家族の冬の洗濯が辛かった。干しても皆凍ってしまった。
冬の暖房用の石炭は、毎年、夫と畑の向こうの川に拾いに行った。上流の選炭場から流れてきた石炭だったが、寒くて重労働だった。
井戸水が枯れた事があったが、その時も川に行って水を汲み、運んだ。
終戦後、親戚が5人、朝鮮から引き上げて来て同居し、世話をした。その時は漬物を沢山漬けて、お菜にした。
夫の3人の妹は、皆女学校を出ていたので、満足に学校に行かなかった自分は、いつも劣等感で小さくなっていた。
70過ぎに目が悪くなり、白内障の手術を受けた。80歳過ぎには、耳が遠くなった。
自分達には子供ができなかったが、とに角農業は66歳まで、家庭用野菜を作る畑は80歳過ぎまでやったから、働き通した。
51歳の時に姑(79歳)を、52歳の時に舅(83歳)を、相次いで家で看取った。
90歳の時、94歳の夫を家で看取った。
その後、田畑を手放し「高齢者専用賃貸住宅」で4年ほど暮らしたが、自炊ができなくなり、姪(私の事)が面倒を見てくれる事になって、今に至っている。
入院前も、してからも、「幸せだったのは何時でしたか。」と誰に聞かれても、伯母は「姪に世話になっている今が、一番幸せだ。」と答えていた。
今後の伯母の希望は、延命治療は受けずに、自然に死にたいと言うので、主治医には伝えてある。
いつまで元気でいてくれるか分からないが、現在目も耳も閉ざされている伯母の為に、私は会うたび、耳元で話し、なるべく色々な会話をするように心がけている。
(この写真は昨年の誕生日に家で撮ったもので、伯母が私からのパジャマなどのプレゼントを開けているところ。着ているベストは伯母の手編み)
伯母様の白寿、おめでとうございます。
入院してからも、幾つかの山を乗り越えられてきたんですね…もともとがお元気で長寿の体質をお持ちなんでしょう…
そして、いつもお世話になる方々への感謝を忘れない伯母様の心のあり方…
素晴らしいですね。
私もそんな気持ちをいつまでも持って生きていきたい…そう思いました。
早速コメントを頂き、有難うございました。
伯母へのお祝いの言葉、嬉しく思います。
伯母の生命力は、すごいな~と思うばかりです。
私もどうすれば伯母のように元気で長寿できるか、見習いたいものと思います。
誰にでも感謝の言葉を忘れないので、看護婦さんやヘルパーさん達に可愛がられています。
これからも、伯母に寄り添って行きたいと思っています。
今、このブログを読み・・・胸を熱くしています。
こんな苦労をしてきた伯母様がベッドの上でミキサー食を食べながらも・・・廻りの人への感謝を忘れないでいることに、胸を打たれています!
ソナタさんの世話になっている今が一番幸せである・・・これも感謝の気持ちの表れですね。
どんな人が倖せか・・・今現在の状況や身近な人に感謝出来る人が倖せになれる気がしています。
私にも今月92歳になる父が居ます!たった今電話をかけました。15日に姉とかかりつけの病院に行って来ました。ソナタさんと同じ気持ちです。
これからも優しい気持ちを持って、寄り添っていきたいと思います。
伯母様の手編みのベストがとても素敵ですね~
貴重なお話をありがとうございました(*^_^*)
いつもコメントを頂き、有難うございます。
伯母の人生は、大正、昭和を生きた多くの日本女性の人生に重ね合わす事ができると思います。
小さい時に私達姉妹は、父親が入院していたため伯母がいた祖父母の家に長いこと預けられました。
その時、世話になったお返しだと思って、血縁は無いですが引き取ることにしたんです。
十分な世話ができているかどうかは自信がないですが、私なりにできる事をして来たし、これからもする積もりです。
私がバリアフリーの家を建てたり、栄養学や高齢者の生活を勉強して来たこと、全部、伯母に役立ちました。
姑(私の祖母)には十分心を開けなかったようですが、私には何でも話してくれるのが嬉しいです。
それでこんな一代記もまとめられました。
多分、親戚の人達も伯母のして来た生活は詳しくは知らないと思うので、何かの機会に伯母の生きた証を印刷して知らせたいと思っています。
お父様も長寿を全うして欲しいですね。ご家族の見守りが何よりだと思います。