23日にベトナムから帰宅したが、留守中録画していたTVを見終わるのに2日かかり、その間椅子に座っていたので腰も痛くなった。
今日から旅日記に取りかかりたい。今回は、できるだけ要点をまとめて見たいと思っている。
先ず1月16日成田発19;35のANAに搭乗した。ベトナム南部のホーチミン・タンソンニャット国際空港までは8時間かかるが、日本との時差は-2時間なので、到着したのは真夜中の1;25だった。
ムッとした気温の中をバスでホテルに向かった。真夜中なのに暑いためか、外に人が出ていた。
現地添乗員が、「1000年前のベトナムは、北部はベトナムだったが、中部はチャム王国、南部はクメール王国、ホーチミンはカンボジアだった。」と話した。
そして、「歴史的には、1000年間は中国の支配を受け、100年間フランスの植民地になり、50年間(1925~1975年)はアメリカの支配を受け、1975年4月30日、ベトナム戦争は終結して今のベトナムが誕生したが、300万人の人が戦死し、南部や山岳部で枯葉剤の影響を受けた子供は400万人もいる。3世代後まで影響が出ている。」という話をした。日本ではべとちゃん、どくちゃんが有名だが、まだまだ沢山の人々が、近代の化学兵器を使った戦争の犠牲になっていることを改めてベトナムで知らされたのだった。
ホテルに着いたら2時半になっていた。風呂に入り、荷物を片づけて寝たら4時を過ぎていた。
2日目は9時にホテルを出発し、75km南にあるミトーに向かった。ミトーは南シナ海に流れ込むメコン川のデルタ地帯にある人口5万人の小さい町だ。
古くからデルタ地帯で取れる米の集積地として、また米麺(日本ではビーフンという)の生産地らしい。
この辺りでは1年に3回米がとれるという事だが、丁度稲刈りをしている農家を見た。ベトナムはタイに次ぐ米の輸出国なのだが、稲刈りのほとんどは人手に頼ってやっていた。田んぼの中にお墓があった。田舎ではほとんどが土葬らしいが、先祖が見ている前で、労働に精を出しているのだった。
ミトーに着くと、まず茶色に濁ったメコン川を小舟に乗り(写真①)、 トイソン島に行った。マンゴウ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ、ライチ②、パイナップルなどの果物がなっていた。養蜂家もあって③、蜂蜜を売っていた。バナナの葉で屋根を葺いた場所で、フルーツを食べた。④
① ②
③ ④
いよいよ4人乗りのボートでメコン川のボートクルーズだ。私が乗ったボートは50歳位の夫婦が前後で漕いでくれた。15分位だったが、行きかうボートが多く、川辺には熱帯植物が生い茂っていて楽しめた。⑤⑥
⑤ ⑥
また初めの小舟に乗ってミトーの船着き場に戻ったが、船の中でココナツにストローを刺して飲むココナツミルクがサービスされた。薄い甘味のジュースだった。
その後、ホーチミンに戻り、元南ベトナム政府が置かれていた「統一会堂」を見学した。
入り口には、南ベトナム解放戦線が乗りつけて統一会堂を占拠した戦車が置かれていた。大統領執務室にはアメリカとの直通電話が置かれ、緊急時の避難口も付いていた。実際に大統領は最後に屋上のヘリコプターで逃げたのだが、屋上にはヘリコプターも置かれていた。⑦⑧⑨
⑦ ⑧
⑨
最後にホーチミン市の広大なベンタイン市場を見学したが、雑多なベトナムグッズが所狭しと積み上げられ、狭い通路は人でごった返していて、ベトナム人の勢いが感じられた市場だった。
今日から旅日記に取りかかりたい。今回は、できるだけ要点をまとめて見たいと思っている。
先ず1月16日成田発19;35のANAに搭乗した。ベトナム南部のホーチミン・タンソンニャット国際空港までは8時間かかるが、日本との時差は-2時間なので、到着したのは真夜中の1;25だった。
ムッとした気温の中をバスでホテルに向かった。真夜中なのに暑いためか、外に人が出ていた。
現地添乗員が、「1000年前のベトナムは、北部はベトナムだったが、中部はチャム王国、南部はクメール王国、ホーチミンはカンボジアだった。」と話した。
そして、「歴史的には、1000年間は中国の支配を受け、100年間フランスの植民地になり、50年間(1925~1975年)はアメリカの支配を受け、1975年4月30日、ベトナム戦争は終結して今のベトナムが誕生したが、300万人の人が戦死し、南部や山岳部で枯葉剤の影響を受けた子供は400万人もいる。3世代後まで影響が出ている。」という話をした。日本ではべとちゃん、どくちゃんが有名だが、まだまだ沢山の人々が、近代の化学兵器を使った戦争の犠牲になっていることを改めてベトナムで知らされたのだった。
ホテルに着いたら2時半になっていた。風呂に入り、荷物を片づけて寝たら4時を過ぎていた。
2日目は9時にホテルを出発し、75km南にあるミトーに向かった。ミトーは南シナ海に流れ込むメコン川のデルタ地帯にある人口5万人の小さい町だ。
古くからデルタ地帯で取れる米の集積地として、また米麺(日本ではビーフンという)の生産地らしい。
この辺りでは1年に3回米がとれるという事だが、丁度稲刈りをしている農家を見た。ベトナムはタイに次ぐ米の輸出国なのだが、稲刈りのほとんどは人手に頼ってやっていた。田んぼの中にお墓があった。田舎ではほとんどが土葬らしいが、先祖が見ている前で、労働に精を出しているのだった。
ミトーに着くと、まず茶色に濁ったメコン川を小舟に乗り(写真①)、 トイソン島に行った。マンゴウ、パパイヤ、ドラゴンフルーツ、ライチ②、パイナップルなどの果物がなっていた。養蜂家もあって③、蜂蜜を売っていた。バナナの葉で屋根を葺いた場所で、フルーツを食べた。④
① ②
③ ④
いよいよ4人乗りのボートでメコン川のボートクルーズだ。私が乗ったボートは50歳位の夫婦が前後で漕いでくれた。15分位だったが、行きかうボートが多く、川辺には熱帯植物が生い茂っていて楽しめた。⑤⑥
⑤ ⑥
また初めの小舟に乗ってミトーの船着き場に戻ったが、船の中でココナツにストローを刺して飲むココナツミルクがサービスされた。薄い甘味のジュースだった。
その後、ホーチミンに戻り、元南ベトナム政府が置かれていた「統一会堂」を見学した。
入り口には、南ベトナム解放戦線が乗りつけて統一会堂を占拠した戦車が置かれていた。大統領執務室にはアメリカとの直通電話が置かれ、緊急時の避難口も付いていた。実際に大統領は最後に屋上のヘリコプターで逃げたのだが、屋上にはヘリコプターも置かれていた。⑦⑧⑨
⑦ ⑧
⑨
最後にホーチミン市の広大なベンタイン市場を見学したが、雑多なベトナムグッズが所狭しと積み上げられ、狭い通路は人でごった返していて、ベトナム人の勢いが感じられた市場だった。