一昨日、「新鮮舘おおまち」で出荷を終えて帰る際、どの道を通って帰るか、やや躊躇した後、
何故か普段あまり通らない道を選択した。
そして、街中にあるセレモニーホールの前を通り過ぎる際、掲出されていた葬儀の案内板を何気なく
見て通り過ぎた。
しかし、50mほど先に進んでから、案内板に記載されていた「百々」という珍しい姓の意味に気付き
衝撃が走った。
慌てて戻り詳細を確認したところ、案の定、小学校時代の恩師、百々孝子先生の葬儀の案内だった。
明確な根拠も無く普段通らない道を選択させたのは「恩師の意思」だったようだ。

(恩師の「旅立ちの日」、久し振りに青空が広がった)
「弔 辞」
赤荻小学校時代の教え子を代表して、百々孝子先生のご霊前に、謹んでお別れのご挨拶を申し上げます。
先生には一年生、二年生、そして四年生のクラス担任として、三年間もご指導頂きました。
古びた木造校舎の教壇に立つ、若く美しい先生の姿は、子供心にも眩しく感じられ、皆の憧れの的でした。
当時の田舎は、何処も貧しく、学校に通うにも野山で遊ぶにも履物はゴム製の短靴が普通の時代でした。
戦後の「産めよ増やせよ」の団塊の世代だった私達を、三年生の担任だった男性教諭は、後年「お前逹は、
何をしでかすか分からないエネルギーを秘めていた」と評していましたが、「単なる悪ガキの集りだった」
というのが本音ではなかったかと思われます。
そんな、子供達に対し、途中で金森先生から百々先生に変わられた孝子先生は、叱ることも無く本当に
やさしく接してくれました。
放課後、オルガンを弾いている先生の周りに子供達が集まった時、当時は滅多に口にすることが出来なかった
キャラメルを御馳走になったこともありました。
個人的にも、先生との思い出は少なくありません。
自転車で下校途中の先生と道路ですれ違う際、自分の自転車のハンドル操作を誤って先生の自転車に衝突して
倒してしまったことがありました。また、作文の宿題の提出期限に困って、当時、弘前大学病院に居た母から
貰った手紙を丸写しして提出したことも思い起こされます。
そんな中で一番の思い出は、四年生の時に学校の廊下ですれ違う際、「良輝君は算数の天才だね」とニッコリ
笑って声を掛けてくれたことでした。
愚かな私は、その「励ましの言葉」を「誉め言葉」と勘違いし、ますます「勉強しない子になる」という過ちを
犯してしまいました。
しかし、社会人になって「先生の真意」を理解できるようになってからは、安易な形で周囲に迎合せず、信念を
持って臨む「心の支え」となりました。
そんな大恩有る先生に対し、同級会でお会いした際に「感謝の気持ち」を伝えたかったのですが、それを果たせ
ないまま今日を迎えてしまったことが残念でなりません。
当時の仲間の同級会は、これまで何度か開催して来ましたが、先生が出席出来なくなってからは参加者も少なく
なり、今は、市内在住者だけで「年に一度」集まるようにしております。
今年は、急きょ予定を変更し、「百々孝子先生に感謝する集い」と題して集まることにしました。
既に彼岸に旅立ち「自由な身」となりました先生にも、是非出席して頂き、改めて六十年前のご恩に感謝したい
と思っております。
会場は、山目小学校の近くに有る小沢食堂で、2月9日(金)6時開始となっております。
先生のお越しを心からお待ち申し上げます。
平成30年1月29日
赤荻小学校時代の教え子を代表して
熊 谷 良 輝