穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

象と一角獣のはなし

2009-08-06 20:15:53 | 村上春樹

この前のシリーズで村上春樹さんを象に例えたわけだが、べつに村上氏が偉大だとか巨大だとかいうつもりではない。一つの作品に蟻のように無数の書評家が群がり、瑣末なことをあげつらっているだけで、結局1Q84という小説の全体的つかみを読者に与えていない有様を評したまでのことである。1260円をかえせ。

さて、この「1Q84をどう読むか」の中に千野帽子さんの文章がある。二つのプロットが相互に提示されて交わることなく進行するというのは、村上氏の作品でも他にあるそうで、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だそうだ。

ほかにも「1973年のピンボール」や「海辺のカフカ」も同じスタイルらしい。

偶然だがこの間何となく本屋の書棚の前でカンが働いてこの「世界の終わりと、」を買ったわけ。いま最初のところをちょこっと読んだところだが、まったく退屈な文章。それに交互に関係のない話が延々と入れ替わるが、どこで二つの話が交わるのかまったく分からないと言うのもばかばかしくなる話だ。

それでも、ちりばめられたエピソードとか章のそれぞれが面白ければいいのだが、全然面白くない。

ところが書評家以外の人達の声をブログで拾うと、1Q84は断然面白いという意見がおおい。あっというまで、気がついたら読み終わっていたなんてのがある。それじゃ「世界の終わり」から[1Q84」の間に文章がうまくなったんだ。あるいはストーリー・テリングが。

それとも、純文学からエンターテインメントになったのかな。


群盲、村上春樹を撫でる6

2009-08-06 08:42:38 | 村上春樹

もっとも女学生的なのは大森某と豊崎某女と対談「1Q84めった斬り」、というヤツ。

何ページにはどうかいてあった、何ページにはどうか言ってあった、って女学生がポストイットの付箋をつけたノートを見ながら言っているみたいだ。

大森望がいっているが、月が二つあるのがSF的におかしいんだそうだ。それで前に書いたことを思い出したが、これが「総合小説」のいいところかな。SF小説20戒見たいのがあるのかどうか、知らないが。

いちゃもんをつけられたらこれはSFではござんせん、総合小説です、なんてね。

まったく、何ページの何がどうのこうの、と脚注を作っているみたいで、こんなことをしているのが書評家と言えるのか。


群盲、村上春樹を撫でる5

2009-08-06 08:18:00 | 村上春樹

さて、<<<村上春樹<1Q84>をどう読むか>>をどう読むか>>>第五回である。

前回ネタ本さがしに狂奔する書評家の姿を紹介したが、同様の重複、混乱がモデル探しで起こっている。

やれ、オームがモデルだとか、山岸会だとか、やれ南野垂兵衛が教祖のカルトだとか、執筆者諸君は自己の知識を競っている。そんなことはどおでもエエ。ある程度は参考にしてもいいがの。


群盲、村上春樹を撫でる4

2009-08-06 07:20:52 | 村上春樹

この本「*1Q84をどう読むか」は薄っぺらな本なのに数十人が書いている。ひとり、二、三枚から数枚といった割り当てだ。

多くの執筆者が狭いスペースでネタ本探しに狂奔している。異様な印象を受ける。実にいろんな人物や著書が出てくる。そんなに大事なことなのかね。肝心の村上の本の内容がわからん。

編集者のコーディネイションが取れていないから重複もおびただしくある。

別にいつものように提灯を持つ必要はない。批判的であっても、それを通して本の内容を推測させるところがなくては書評とはいえまい。

まるで、これまでに人が指摘していない、人を驚かすようなネタ本を指摘して自分の知識を見せびらかす女学生の競演のようである。

じつにいろいろな名前、典拠が明かされる。ああ、そうかい、ああ、そうかい、てなものである。

各執筆者は一般読者よりも同業者に対する自己の知識の誇示に執心しているのだろう。読者はいい迷惑である。

昔の、他の本に似ているからどうしたというのだ。人間の考えること、書くこと、つくるものは似たようなものになるのだよ。違うのは小生の文章ぐらいだ。これだけは他では絶対に見ることが出来まい。あぶない、あぶない。