穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

村上春樹1Q84は1985-1

2009-08-19 20:00:11 | 村上春樹

結局村上春樹は初心に戻ったらしい。1985年に「世界の終りと、」を発表したが、その一年前に舞台を戻して、リセットして新しいバージョンを書き上げたわけだ。

「構造的」にはウロボロスの尾のように二つの作品は円環をなしているわけだ。

世界の終りの、の「僕」のいる「壁のなか」は、さきがけの「塀のなか」になる。

「心」と「記憶」を捨てれば壁の中で平和に暮らせる > 世界の終りと、

「個人の意思」を捨てれば、さきがけの塀の中で幸せに暮らせる > 1Q84

二作品のもうひとつに共通点、村上氏の強迫観念の一つに「世界の終末」という観念がある。1Q84でも両パートで「世界の終末の予感」が繰り返し語られている。

村上春樹はハルマゲドン信者なのかね。


村上春樹1Q84;おやじギャル

2009-08-19 19:41:57 | 村上春樹

ひきつづき、青豆パートのはなし。

必殺仕事人であることを除けば、青豆ちゃんのライフスタイルは中年オヤジのやることはなんでも真似る親父ギャルそのものだね。

酒を飲みに行っちゃ男をひっかける。そのくせ、小学校の時に一度手を握った男のイメージを守り続ける。これって、しがないサラリーマンの最大公約数じゃないの。

というよりか、ふうてんの寅さんか。


村上春樹1Q84;ブランド問題

2009-08-19 19:32:37 | 村上春樹

さてと、どれからいくか。もう少し女性マーケット問題でいこう。その前にひとつ。

この小説は青豆パートと天吾パートの二本立てなんだが、青豆パートが均衡を欠いて軽い。章の数は同じ、ページ数までは同じではなかろうが長さに関係なく青豆パートが軽い。しかも生硬である。まるで下手な政治パンプレットを読んでいるようだ。

青豆パートにはやたらとブランド名が羅列してある。出てくるというより羅列してあるというほうがいい。全部現実にあるブランドかどうかはしらないが。衣服、装身具、それからワインなど。いかにもブランド狂いのOL市場用にみえる。

このパートは青豆の視点で見ているのだろうが、キャラクターの設定では青豆はブランド志向を軽蔑するような女性に見えるが、それにしてはこの商品名の羅列はどういう効果をねらっているのか。キャラ設定ともしっくりいっていないようだ。

村上さんのかみさんがブティックでもやっているのかな。ブランド志向のOL読者をうならせようという作戦だろうか。

もっとも、このブランドのリストの半分がわざと架空のものだったりするとまだしゃれっ気があるんだが、

もちろん、現実の商品名をふんだんに入れる作家は内外に多いが、それに比べてもこの作品にあふれているブランド名の数は異常である。


村上春樹1Q84;女性市場

2009-08-19 07:57:00 | 村上春樹

ブログというのは日記だそうだ。日記は毎日つけることが大切らしい。

そこでだ、諸君

一日ようやっと五ページほど読むとする。その箇所の感想を書けば毎日ページを更新できるわけである。

さて、1Q84は「世界の終り、」同様、(「海辺のカフカ」は読んでいないが、それもそうらしいが)、二つの話が並行、交互にあらわれる。「世界の終り、」ではすべての人物が記号的であるが、1Q84でも二つのパートの語り手(視点)は記号的である。女は青豆、男は天吾。

村上春樹は自著の翻訳も並行して行っているのか、翻訳市場を念頭においているのか、名前の付け方も翻訳を念頭において決めているらしい。青豆はgreen peasであろう。これはテロリスト環境団体greenpeaceに引っ掛けてあるに違いない。

天吾というのもTengoで欧米人の耳に入りやすく、おぼえやすい名前だ。あやふやな記憶だがスペイン語でtengoはI have ということじゃなかったかな。yo tengoなんてね。

ところで空豆ちゃんね、これって女性マーケットに受けるかな。村上春樹は大きな女性マーケットを持っているそうだが、青豌豆ちゃんはどうかね。一抹の危惧を感じる。余計な御世話だって、ちげーねぇ。