今回はカベと影、森という、「僕」の放り込まれた城塞都市国家の諸記号についてまとめて述べる。相互に関連しているからそのほうが説明しやすい。
何度も言うように、この物語は意図的に韜晦した記号たちによる寓話であるから、幾通りもの解釈が可能である。そのなかで、這般の情報を勘案してもっとも妥当と思われる分かりやすい例解を示す。
ずばり言うが、カベは日本国家である。カベは被害妄想に取りつかれた在日半島人が措定するところの日本国の権力である。「僕」の出自は在日半島人である。
カベは彼らの闘争、反抗を封じ込めとらえこみ、制限する機能を持つ。これはエルサレム賞でのカベにつながる。
朴たちはどうしてここに来たか分からない。ここは意味深長だ。はっきりと強制的に連れてこられたといわない。ここに僕の、あるいは作者の立ち位置があることを示唆している。
「僕たち」は城塞の入り口で各人のもっている影を取り上げられる。村上春樹も日本の作家連中が無条件に信奉しているフロイト、ユングの精神分析「学」の信者だろう。とすると影とはその用語でいう無意識、それもユングのいう集合無意識のつもりだろう。実際、精神分析「学者」自身が無意識のことを影と表現する*。
集合無意識とは半島人のアイデンティティの謂いである。
つまり、影を取り上げられて民族の記憶、アイデンティティを喪失する。よく半島関係者ならびにそのシンパが主張することと一致する。
障壁の手前には森があり、「僕」は森に入らないように忠告される。「僕」は「僕の影」に頼まれて要塞の地図を作る。そのために森に入り城壁に近づく。そのあとでひどい病気になり、昏睡状態が何日か続く。
森の中に住む住人がいるが、その姿を見ることはできない。かれらは都市の町中に出てくることはない。森とはなにか。一番無理のない解釈は被差別のある地域ということである。森の住民とは民である。
「世界の終わり」にはまだたくさんの記号がある。それは次号で。
注1:上記は寓話解釈の一例にすぎない。また村上春樹が半島系というのでもない。彼が描いた対象、テーマがそうではないか、という話だ。
注2:小生は精神分析学を全く信用しない。信じない。学問であるならカルトみたいに信じることもない。科学なら「納得できれば」いいのである。それは科学ではないからもちろん小生は納得も理解もしない。
しかし、日本の、世界の作家たちや知識人たちが信奉しているなら、そしてそのターミノロジーで村上が理論構築をしているなら、メタ評論としては、おなじフレージングを使わざるをえない。それだけのことである。