穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

不愉快型私小説作家

2011-01-29 12:38:55 | 西村賢太

西村賢太の小説を読んで、これは不愉快型私小説だなと思った。志賀直哉との類似である。志賀直哉はWIKIPEDIAによれば調和型心境私小説だそうだが、「不愉快」とことごとに腹を立てる気分が中心となっている。

志賀の場合は、すぐ、不愉快と書くがなんだかよくわからない。父親の態度であり、友人の態度らしい。西村の場合は縷々説明敷衍する癖があるからその点は判りやすい。


ハードボイルドの私小説化?

2011-01-29 08:51:08 | 社会・経済

私のハードボイルドの定義は「犬も歩けば棒にあたる」。

池上冬樹氏によれば「私立探偵小説は、事件の捜査が、一人の証言から手掛かりを得て、また別の証言者へと向かう巡礼形式をとる」

じゃによって私によれば、ハードボイルドは内容がよほど、どぎついか煽情的でない限り読者を得られない。あるいはその文章が水準を相当抜いているかどうか、が成功を左右する。前者の例がミッキー・スピレーンである。後者の例がチャンドラーである。

スピイレーンが現在読まれないのはその当時のどぎつさがこんにちのレベルではちっともどぎつくないからである。

池上氏は続ける。前記の巡礼方式をとるため、「小説が往々にしてパターン化してしまうことが多い。よほど技巧とプロットに長けていないかぎり、マンネリ化は避けられない」、、「そこで作家たちはマンネリ化を避けるために、、、主人公の私生活を綿密に描くようになった。、、、私立探偵小説の私小説化」云々

上記はクラムリーの「さらば甘き口づけ」(ハヤカワ文庫)への池上氏の解説の一部である。氏の解説の続き、「しかし、ほとんどの作家の作品では、あくまでもメインは事件であり、作家の私生活は脇筋なのである。しかし、クラムリーは違う」などなど。

池上氏は「私小説化」というが、いわゆる私小説とは違う。作者が作った探偵の私生活であり、一人称一視点で語られることが多いために、いかにも「私小説」めいて見えるということだ。

日本の私小説でも、どこまでが作家の実生活の露悪なのか疑問がある。ま、作りごととホントが半々というところだろう。しかし、叙述のスタイルではいわゆる私小説とハードボイルド御三家のチャンドラーおよび一部の継承者のスタイルとはたしかに類似がある。

御三家の中でこういう視点が入るのはチャンドラーだけのようだ。だから村上春樹がロンググッドバイの解説で触れているように彼も戸惑うのだろう。もっとも村上氏の捉え方はどうかと思うが。そこにチャンドラーに対する奇異の感を見るのは鋭い。