穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

『華麗なるギャツビー』、グレート・ギャツビーの映画化

2013-06-20 22:38:46 | 書評
前回の続きで今回は映画としての感想だ。

そのまえにお断り。この小説は前に何回か映画化されているようだ。タイトルも小説とは違ったかもしれない。私が話しているのは今週日本で公開された新しい映画である。

* カーニバル小説としての、あるいはカーニバル映画としてのGG

最近バフチンを読んでいるせいか、見ていてすぐに彼のカーニバル説を思い出した。まさにGGは一夏のカーニバルの王であり、前半は戴冠した王の主宰するカーニバル(豪華な屋敷での連日のパーティ)

中頃に純愛不倫再開物語(戴冠前の純愛物語が不倫として復活)

終章はカーニバルの王の奪冠(GGの殺害)

そしてカーニバルの王の再生(ニックの追憶のなかで)、映画では原作とすこし趣向がことなり「フレーム」になっている。

とこうなる。名作というのは「物語の作法」にのっとっていると感心した次第である。

* 各部の評価

前半の連夜の(正確には毎週末の)カーニバル(パーテイ)場面は映像としてすばらしい。
原作の文章では、ここまでの迫力はでない。

純愛再開物語は原作と対比して無難

奪冠の部分は前半と比べて出来映えは並といったところだ。小説から採用しなかった部分で、採用して映像としてもインパクトのある箇所があるような気がする。

フレームについて、これも趣向だろう。

* 役者について

GG役についてはまあまあだ。主役だから基準は厳しくなる。

デイジー役、その他の準主役は原作の想定している設定(私が想定した)キャラクターに合致している人選、役作りだ。準主役は枠にはまったアーキタイプを演じればいいのだから人選を過たなければそれでOKである。トム、ミス・ベイカー、ウルフシェイム、GGの執事など雰囲気が出ている。

ちなみにトムが有色人種の帝国に世界を乗っ取られるから警戒しろ、と言っているのは大日本帝国のことである。




映画「華麗なるギャツビー」、グレイト・ギャツビーにおけるオールド・スポート

2013-06-20 22:01:43 | 書評
かってこのブログでフィッツジェラルドの小説「グレイト・ギャツビー(以下GG)」のなかにでているオールド・スポートをどう訳するかということで私見を述べた。村上春樹氏が訳書のあとがきで、どうも適当な訳語がないとぼやいていたので、一提案をしたわけだ。

今週から新しい映画化作品が上映されたせいか、このブログのアクセスが増えた。それで今日映画を見てきた。そんな経緯でもなければ映画を見なかっただろうが。映画の字幕でOSが何と訳されているか興味があったわけである。

字幕ではまったく無視する(訳さない)場合と「友よ」があるようだ。「わが友よ」というのもあったかな。英語の台詞では「オールド・スポート」と言っている。小さな声でいっているね。要するにあまり強調したり、アクセントをおいていない。

そして、このOS(オールド・スポート)が頻出するんだね。会話の中で占める比率で言うと、小説よりか多いような気がする。アメリカでも現在はおそらく死語だろうから、まったく台詞から省く手もあっただろうに。つまりシナリオライターや監督はこの原作者の言葉を重視しているのだろう。

字幕の友よ、というのもどうもね。だから字幕作者も気が引けるのか十ぺんに一回くらい、友よ、とやって後は省いて訳さないのだろう。

ちなみに新潮文庫は「親友」だが、会話の中での呼びかけにはどうもね。村上春樹はずばり「オールド・スポート」だ。

私は前のブログで、若者同士が、老成した青年に対してからかい気味に、日本で言うように(現代の青年は言わないだろうが)ご老体とか御大とか大将とかしたらどうだろうか、と提案した訳だ。しかし、一回や二回ならともかく、あれだけ頻出すると、その度にご老体とやっていては異常な感じだろう。

さて、せっかく映画を見たのだから、その作りについても書こうと思ったが今回の記事が長くなったので次回にする。