穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第X(9)章 女としての母

2016-08-08 20:00:02 | 反復と忘却

三四郎の母は父の死亡した数年前に亡くなったのであるが、きょうだいたちの新しい面に気が付いたと同様に死亡した母についても新しい姿が見える様になった。 

彼にとって母は聖女のような存在であった。また、父との関係では暴虐な夫に虐げられた妻という観念であった。その認識は変わる訳ではないが、新しい母の側面と言うか、陰翳というものが理解できるようになった。それは女性としての母が見えて来たということだろうか。母が、そして父が生きている間は彼女の像というものは三四郎には単純明確でもあり、そんなに複雑なものではなかった。

しかしながら夫婦の関係というのは複雑なものらしい。多様なものであるらしい。暴虐な夫と忍従の妻という関係は世間ではそう珍しい存在ではないらしい。また、そのために妻が不幸とも必ずしも言えないようなのである。暴虐が愛情の欠如というわけでもないとドストエフスキーは「地下室の手記」で書いている。そういう形でしか愛情を表現できない人間がいるという。そして妻もそういう夫の愛情を理解するというのである。

母は父のいない所でも決して父のことを悪く言わなかったし、夫婦の日常を見ている三四郎が父に悪い感情を持つのを心配して父のことを褒めることしかしなかった。「お父さんは決して手をあげるようなことはなさらなかった」と彼にいったことがあった。反対に彼は父にはよく殴られたのであるが。

父の母に対する暴圧はもっぱら口によるものであって、サディスティックとも言えたが、母がそれに耐えられなかったというわけでもない。女性というのは強靭なものらしい。柳に風と受け流していた風でもあった。身体が生来あまり強くないにも関わらず長命だったのもそのせいかもしれない。

しかし、母もさすがに女だったな、と気が付いたことがある。母は彼女の流儀でちゃんと父に復讐をしてもいたのである。強烈な夕陽の水平直射が視界を暗くしていた。日没とともに明らかになることもあるのである。満天にきらめく星々のように。