穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第D(11)章 婆さんの定番話題

2016-08-27 08:44:58 | 反復と忘却

午前中は雲一つ浮かんでいない青空だった。地平線のかなたにスモッグが棚引いているだけであった。俺は勤め人で込み合う昼休みの時間が終わったころに飯屋に入る。今日はどういう日なのか婆さんたちが多い。二月に一度の年金支給日なのかもしれない。 

となりにもお婆さんの二人連れがいた。ひとりは七十歳代くらいの女である。相手は九十歳前後とおぼしき女だった。七十おんなが馬鹿でかい声で相手に話している。まわりの客のこと等眼中にない。どうやら相手の九十おんなの耳が遠いらしい。首がまっすぐ立たないらしくほとんど九十度前傾したまま蚊の鳴くような声をだしている。座り方も変だった。腰痛なのか浅く腰掛けて今にも椅子からずり落ちそうなのだ。あまり七十おんながうるさいので相手の顔をしげしげと観察したついでに九十婆さんの顔を見てみた。上品な顔をした婦人だった。

どうして年配の女性の話題というのは病気のことばかりなのだろう。彼女達もあそこの病院はどうだとか、どこの先生はいいだとか悪いだとか延々と話している。どうやら七十女が「脊椎狭窄症」にはどこの大学病院に行ったら良いとか相手に教えているらしい。ふんだんに専門用語のようなものを使っている。あちこちの病院で暇をつぶしているうちに相手の医師から聞き出したことをもっともらしく話しているらしい。それもおなじような話をさっきから何回も繰り返している。

珍しくもない光景である。彼女達が熱意を持って飽きもせずに出来る話題はもう「病気」の話しかないのである。

老婆達の反対側にも妙な女たちがいた。一人は普通の上品な感じのミッドサーティーてな見当の女である。相手はアラサーの異様な印象を与える女で最初は中国人かと思った。壁を背にした席に座っていたが、とても上座に座る人品ではない。上品な女性がなにかのセールスウーマンで商談でもしているのか、接待でもしているのかもしれない。ひょっとするとこの女はたちの悪いクレイマーなのかも知れない。それに係が対応している様にも見える。二人は普通の声で話しているから、何を話しているか分からない。日本語であることだけは分かった。

ちょっと目を下にやると、別にいやらしい意図があったわけではないが、この中国人風の女が足首を反対側の膝に乗せている。男でも人夫土工の類いが道路にたむろしている時にしか見かけない。足を組むなんてものではない。これにはさすがの俺も驚いた。このごろの女にはチンチクリンなのが多いがここまでひどいのはまず見かけない。今日の昼飯の収穫はそんなところだ。後は和風ハンバーグステーキね。

レストランのある大型商業ビルを出ると先ほどと打って変わって空一杯に雲が湧いている。そして雲の底は泥でも塗った様な灰色である。大抵の日は夕方まで街を徘徊して帰るのだが今日はまっすぐマンションに戻ることにした。

マンションにはまだ五時前だったので日勤の管理人がいた。管理人室の前を通ると彼が中から出て来た。「鱒添さん、電話の調子が悪いんですか」と聞いた。

「いや、どうして」

「さっきNTTの職員がきて電話が故障だから直しに来た、というんだ。あなたから聞いていなかったからなかには入れなかったけどね」

「へえ、おかしいな。電話は故障していませんよ。NTTに連絡したこともないし」

「インチキかな。このごろは色々なことがあるからな。それから鱒添さん、電話が故障した時にはこちらにも連絡してくださいよ」と管理人はいった。

「それはもう」

この管理人はいかにも意地悪そうな人で相当な年配だったが。なんでも戦争中は香港で憲兵隊の下士官だったそうである。米軍占領中は後難を怖れて地下に潜っていたという噂がある。

部屋に入ると電灯をつけた。留守番電話があったことを知らせるランプが点滅している。メッセージは録音されていない。受信履歴を確かめた。いつもの無言電話である。管理人が言っていたNTTの職員を騙る連中はなんだろう。ひょっとすると、これは会社の陰謀屋が盗聴器を仕掛けにきたのかもしれない。彼らは反対派の組合事務所に盗聴器を仕掛けたことがある。第一組合の連中がそれを発見して警察に訴えたことがあったのである。管理人が職業的に疑い深くてよかったと俺は思った。