穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第X(12)章 母は三四郎をプロジェクトした

2016-08-13 08:29:02 | 反復と忘却

駅前再開発プロジェクトなんてあるでしょう。あのプロジェクトです。実存哲学なんかでは「企投」なんて田吾作が作ったみたいなセンスのない訳語がある。母は男としてのつまり夫としての理想像のリストを作っていたのかもしれない、父のメモ「私のハイラーテン観」に対抗して。

勿論それは現実の父の特徴の正反対のものばかりであった。母は三四郎を生物学的にプロダクトするばかりでは満足せずに彼に自分の理想の夫像をプロジェクトしようとしたのである。当然のことであるが、それは三四郎に取っては重苦しく迷惑なものであった。こうして母は夫に対する鬱屈した不満を中和し昇華していたのかもしれない。

三四郎のなかで今にいたるもこの現実を無視したとも言うべき弁証法的矛盾は調停されていない。母は下品なことを嫌った。キリスト教が好きだったというよりも賛美歌の醸し出す上品な雰囲気を好んだのである。そういうとミーハーと代わりがないかって、そう言ってもいいかもしれない。

音楽では何と言っても賛美歌以外ではクラッシックであった。母は流行歌に怖気(オゾケ)をふるった。身を震わせて嫌悪感を表現した。いま流行歌なんて言葉が通用するのだろうか、とも三四郎は思う。歌謡曲とか演歌とでもいうのだろうか。母はまだ三四郎が小学生のころからクラッシックの音楽会に連れていった。彼にはちっとも面白くない退屈な場所であった。とにかく話したり音を立てたりしてはいけないのである。じっと息を殺していなければならない、1時間も2時間も。

美空ひばりというと、古いね、とさすがに三四郎も思う、の唄がラジオから流れてくるとコレラ患者の吐瀉物でも見た様に身を震わせて三四郎にラジオを消す様に命じるのであった。とくに演歌の裏声や小節をきかせるところが我慢出来なかったようである。たしかに下品だし、日本人の感性のもっとも下劣というか、心の奥底に濁って淀む溜まりからわき出すメタンガスを吸うような気がすると三四郎も同意する。

父という太陽が消え母という夜空に輝く星が姿を消した後、三四郎にはそのようなことが見えて来たのであった。