穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

62:注文の多い女

2020-02-16 09:29:12 | 破片

机の上に並べたチラシの枚数は多いが内容のある資料は無いに等しい。あまりの注文の細かさに不動産屋のカウンターの向こうに座っていた女は濃すぎる化粧でくっつきそうになった目を、接着剤でつけた化粧の粉が飛び散るくらいに、不自然に広げて第九を見た。
「さあねえ、無理じゃないですかね」と面倒くさそうに言う女に頼んでとにかくいくつかの物件の資料を貰ってきた。どこの店に入っても反応は似たり寄ったりであったが、とにかくチラシの枚数だけはだいぶたまった。洋美が帰ってきて机の上にチラシが一枚もないと怒り出すに決まっている。

そういえば、部屋の向きについても注文しておかなければいけないのだった。南向きはダメと言うだろう。なにしろマリー・アントワネット風の天蓋対のベッドでマンションの部屋など一杯になる。枕もと、足元でもいいのだが、それはベッドの置き方によるのだが、窓からせいぜい三十センチくらいの余裕しかないだろう。南向きだとカンカン照りの日差しがベッドを痛める。西向きもダメだ。多分東向きもダメだろう。夏など四時過ぎには燃えるような朝日が無遠慮に入り込んでくる。「主(ヌシ)と朝寝がしてみたい」などと言っている余裕がなくなる。それが彼女のほとんど唯一の楽しみだから大事にしなければならない。そうすると、現在のように北向きしかなくなるのだ。ベッドの搬入方法も確保確認しておかなければならない。なにしろ、現在のマンションの五十階にはピアノのように屋上からクレーンを下ろして部屋まで釣り上げてベランダから搬入したのだ。

いっそ骨董品みたいなベッドは処分すればいいのに、と彼は思った。しかし彼女がそんなことに同意するはずがない。