不動産屋のいんちきDMビラの整理に気が載らない第九は部屋を出ると五十階から二階までエレベーターで降りてメールボックスから朝刊を取ってきた。紙面は勿論新型コロナウイールスの記事がてんこ盛りである。テレビを視ても新聞を読んでも新型コロナの話ばかりだ。今日はとうとう日本で患者が続出し始めたという話題である。
「恐れ入谷のタマゴ飯だな」と呟いた。幼いころに彼のおばあさんがよく「恐れ入谷の鬼子母神」と言っていたが、彼はすこし歌詞?を変えてなにかあると意味もなしに節をつけて独り言に云うのである。
連想はカミュの小説ペストに飛ぶ。まるでアレみたいだ。致死率が違うだけじゃないか。それはそうなのだが、町中目に見えない微生物が飛び回っていて、誰彼構わず侵入する。この調子だと日本中に蔓延しそうだ。ペストはたしか細菌だったな、と彼は考えた。読んだのはたしか新潮文庫だったが、訳者の解説で「不条理人」という訳の分からない言葉につまずいたことを思い出した。大体不条理という言葉に非常に抵抗を感じた。要するにどうして不条理というのか訳が分からない。
彼はインターネットで検索した。彼の癖で外国語経由の翻訳語で彼の股間、間違えた、語感に抵抗がある場合は原語を確かめる癖が出たのだ。それによると、不条理というのはabsurdの訳らしい。フランス語でも英語でも同じである。したがってラテン語がオリジンである。
どう考えても不条理という訳はおかしくないか。Absurdというのは相手の行動、あるいは相手の言説を滑稽だとしてバカにした場合に使う。おろかな、とか、バカなというニュアンスである。
これもインターネット、たしかwikipedia(一分前に見たソースも忘れてしまうのだ)だったが、二世紀の神学者テルトゥリアヌスの言葉に Credo quia abusurdus
とうのがあるらしい。「不条理なるがゆえにわれ信ず」と訳すらしいが、この場合は不条理と訳しても違和感がない。その謂いは『馬鹿々々しいけど信じるしかない』という意味でキリスト教の信仰を堅持するためには、処女が懐妊したり、ましてその子が神の子であったり、だから当然最近のはやりの言葉で言えば「非濃厚接触妊娠」とか「非挿入妊娠」ということになるのだが(もっとも人工授精ということもあるかな)、そういう事実もありであると信じないといけない。そうしないとキリスト教の有難いご利益にあずかれない。
死後三日目に復活したという(事実)は信じるよりほかにどうしたらいいのだ。理解することは出来ない。信じることは出来る。理解と信念とは全くの別物であるとプラトンもアリストテレスも言っている。信じるということは世俗的な意味で事実を理解するということとは異なる。なかなか、どうして堂々たる意見である。
それと、いわゆる実存主義者とかカミュがいう不条理とはどういう状況をいうのか客観的に確定することは不可能であろう。彼の記憶ではカミュは不条理の定義を一度もしていない。これほど迂闊なはなしはない。
不条理というからにはなにが条理であるかが明確に誤解のないように確立され表明され、かつ他者から同意されなければならない。このようなことは一切なされていないというのが第九の見解のようである。