穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

星新一訳フレドリック・ブラウン「さあ、気ちがい(ママ)になりなさい」

2021-12-21 07:32:19 | 書評

 早川書房7860の表記の翻訳短編集をすこし読んだ。佳作あり。星の創作と文体が違うのにすぐ気が付いた。作家と翻訳者を兼ねる場合、文体が異なるほうが自然だろう。原作の性格を把握して、自分の創作の文体ではアンベエがよくなかっぺと思う。思わない人もいるが。

 寡読の私としてすぐに思い出すのが村上春樹である。彼の創作の文体と翻訳の文体はちがう。といっても読んだのはチャンドラーとフィッツジェラルドだけだ。そのうち、チャンドラーには、それにふさわしい文体を選んでいる。フィッツジェラルドの翻訳はまた別のスタイルである。そうして好みの問題でもあろうがチャンドラーの翻訳の文体が一番いいようだ。村上春樹の創作の文体は「インテリ気取りのミーハー」受けを狙っているようでピンとこない。

 星新一の場合、意図的かつ自覚的に幼年向けだったらしい。幼年と言うのは昔の陸軍幼年学校の学齢を参考にして小学校高学年から高校二、三年生までの年齢層を言う。最相葉月という人の書いた星の伝記を読むと、星のとりこになった人は例外なく幼年時代に星の虜になっている。星自身も旧作についても頻繁に改定をしていて、その時代の幼年たちに分かるようにゲラに朱を入れていたという。たとえば、「ダイヤルを回す」という表現を「電話をかける」と直す。星は終生旧作に手を入れていたという。前記の伝記によると修正でゲラは真っ赤になっていたというから、用語の変更だけでなくて、文章表現や文体にも朱を入れていたに違いない。

 さて、最初に言及したブラウンの翻訳であるが、表紙にある「さあ、気ちがいになりなさい」は採録されている中ではよくないほうだ。どうしてこの作品を表紙のタイトルにしたのかよく分からない。普通は中でも一番いい作品のタイトルを持ってくるか、最初の作品をタイトルにするだろう。作品の質はよくないが、文句がアイキャッチングだから表題にしたのかな。それだから、この作品を一番後ろに持ってきたのかもしれない。

 それからこれはどうでもいいことだが、「気ちがい」というのは出版界では禁止用語ではなかったかな。また、例によって末尾にある「おことわり」に該当するのかな。他の言葉をもってきようがないものね。