ヘーゲルは、「俺の使っている用語の意味は本を全部読み終わると分かってくる」、とどこかで言っている。定義をしないでボンボン新語、珍語を連発する。「一回通読して理解できれば俺並みに天才である」、「三回読んで分かれば頭がいい」、「百回読んでも分からなければ哲学をやめなさい」といったかどうか。
もっともこれは「哲学者」ほとんどの、ほとんどのと言う修飾句を入れておくが、著作に当てはまる。さて、表題と違うことを長々とやってるなとご不審を抱かれたであろうが、辛抱していただきたい。理論物理学と関係があるのである。
基礎物理学と言おうか、理論物理学と言おうか、応用工学的なものではない物理学の分野ではこういうやり方が「横行」している。ある人はこれを「法則ゼロ」と表現した。ニュートンの法則ゼロとかね、たとえば、彼の質量保存の法則である。べつに証明があるわけでもない。神様が世界を、つまり質量を作ったのだから、ここから先は何故と疑問を持ってはいけないというわけである。言い換えれば当然の前提という世界がある。
アインシュタインの場合も同様である。この世の中に、あるいは世界でだったかな、光より早いものはない、という。これが昔から私には躓きの石なのである。これは前提らしい。直接的には証明されていない。もっとも反証も出てこない。だから正しいのか。私に言わせれば、極めて強力な仮説であるというべきだ。間接的な証明はあるのかもしれないが、私は間接的な証明は採用しない。
一部の物理学者の間では微細構造定数という考えがあるらしい。つまり光速だとか重力定数などの自然定数は一つの無名数に集約できる。つまり重力などの定数が変われば光速はいま観測されているより遅くもなれば早くもなる、という。これは「理屈としては」排除できない。「現実としては」判断がつきかねる。
かねてから、アインシュタイン本人はどう表現していたのか気になっている。「当然の前提として」なのか「不磨の原理」なのか、「ガチガチに証明された法則」なのか、どう本人はいっているのだろう。つまり「とする」なのか「である」なのか。