「そうですね」と富士川は宙を見つめて腕を組んだ。
「分かりやすいところから言えば、カフカの場合は5歳、私の場合は13歳です。つまり思春期のはじめというか、子供から大人のとば口にあたります。第二に、私の場合は寝込みを襲われて父親の怒りの発作の原因がわからない」
「カフカの場合は夜泣きをして泣き止まなかったというのでしたね。それで父親が激怒して息子を厳冬の夜のテラスに締め出したのでしたね」
「そうです、カフカの5歳の記憶というのはある意味ですごい。5歳のころの記憶というのはどんなに異常な事件でもまず記憶に残らないと思うんですよ」
「うん、そうかもしれない」
「それと、この事件がカフカのそれからの人生にどのような影響を与えたかカフカはどこでも説明していない。しいて言えば父親が激怒にかられると非常に極端なことをする性格だったということでしょうか」
「なるほど、」と望月は頷いた。
「私の場合は心身ともに激甚な被害を受けたということです」
望月は老人の顔を見た。「具体的に言うと?」
「わたしは心身共に激しい成長期にあった。まず毎年伸びていた身長がそれ以降止まってしまった。精神的な成長というか爆発も止まった」
「前に言っておられましたね」
「そうして、精神的には自我というものが崩壊してしまった。一番成長が激しい時期に」
相手はちょっとわかないという表情をした。
彼はしばらく考えていたが、陶淵明はご存じですか?と聞いた。
「帰去来の辞ですか」
「それもあるが、作成年代不詳の雑詩がある、として次のような詩句を口ずさんだ。
『我少壮のとき
猛志 四海に馳せ
頭を上げて遠く飛ばんと思えり、
しかし
『じんせんとして歳月は崩れ
この心ややすでに去れり』
となったんですよ。と慨嘆した。