村上春樹が翻訳したチャンドラーのロンググッドバイが文庫本になって書店に並んでいる。巻末にかなり長い彼の解説がある。本屋で立ち読みをした。あまり思い出さないのでハードカバーで買った時にはよく読まなかったらしい。
この(訳者あとがき)はハードカバーのときのものに手を加えたのかしら。瞥見したところそうでもないらしい。そこで家に帰ってからハードカバーを探し出して読んだ。
かなり強引という印象だ。とりあえず気になったところはまず、(チャンドラーの独自性)というところ。チャンドラーに独自性がないなどとはいうつもりはないが、内容だ。簡潔に要約するのは困難だが、たとえば『自我の存在場所に、チャンドラーは「仮説」というあらたな概念を持ち込んだのだ』などというところ。
これはすでに誰かの言ったことなのか、あるいはチャンドラーの残したメモや手紙のなかで言っていることなのか。それなら頭をもうすこしひねらないといけないのかもしれないが、ちょっと理解しかねる。
ジョイス・キャロル・オーツの評を援用しているが、これも村上が敷衍しているような意味でいっているのかね。そうは思えない。ま、引用されている文章しか知らないためかもしれないが。
つぎに、(二人の見事な語り手)という節。これはマーロウとgreat Gのキャラウェイのことだが、村上春樹は構造的にグレートギャツビーをチャンドラーがミステリーとしてなぞったものと言うが、ちがうんじゃないかな。そういう定説があるなら降参するが。
たしかにマーロウとニック・キャラウェイ(great G)は似ているところもあるが似ていないところもある。少し言いすぎではないか。
実をいうと数年前にこの翻訳を観て村上春樹に興味を持った。それまでは彼の本は一冊も読んだことがない。訳そのものは原文に忠実のような印象だったが、あとがきの勢い込んだ思い入れはちょっと抵抗がある。
村上春樹のロンググッドバイ観はテリーを主役と見なし、マーロウをナレーターと見るところにあるわけだが、主役はマーロウだ。これに異を唱える村上は相当に乱暴な腕力派だ。このL.GBYEといういっぷう変わった小説に友情という横糸をはるためにテリーという人物が絶妙に造形されていることは特筆すべきだが、それ以上ではない。
いっぽうグレートギャツビーのほうのニックは縦横斜めどこから見てもナレーターとしてフィッツジェラルドの筆で操られている。
自分の主たる?翻訳本二冊を強引に結びつける手腕というところだろう。