二十世紀哲学界の天一坊といえばウィトゲンシュタインにとどめをさすだろう。心理学界でのフロイトに相当する。ハイデガーについてもその気味はあるが。
ウィトゲンシュタイン(以後W)には後期の哲学と言われるものがあるそうだ。私は一冊も読んでいない。だから「論理哲学論考」のみについての感想である。
昔読んだ(聞いた)ところでは命題の真偽値の議論が喧伝されていた印象だった。それに基づいて従来のすべての哲学、形而上学の理論はタワゴト、ジャーゴンであると啖呵を切ったというあたりが受けたようだ。
これがW自身の言葉かその追随者の言葉かは定かに知らない。命題というのは人間しか作れない。言葉を操れるのは人間だけだからね。Wの主要関心事は命題内の無矛盾だけであったようである。つまりトートロジー(同義反復)しか真なる命題はない。
しかし、命題のほとんどは対象を描写するものだ。とくにWが関心を持っていた自然科学は。したがって命題論をするなら、対象との関係や認識主体(人間)への言及が不可欠だが、その辺にキレのある描写がなかったような記憶がある。
総合的命題(いわゆる経験的命題)についてはほとんど触れていない。単にヒュームの徒であったようである。どこかで「今朝太陽が昇ったからといって、明日また昇るという保証はない」(因果律の否定)というようなことを言っている。ヒュームのことばを繰り返したのだろうが。
したがって「6・54 私を理解する人は、私の命題を通り抜け、その上に立ち、それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う」。
ここまで書いたWを捉えたのは徒労感であっただろうか ?
以上説明したようにWの思想には彼を有力なメンバーとして熱心にスカウトしようとしたウィーン学団(論理実証主義者)との共通点はない。ウィーン学団もバートランド・ラッセルもWを誤解したのである。