穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第X(14)章 デベロッパーだった母

2016-08-15 07:36:26 | 反復と忘却

「母はデベロッパーみたいな人だったんだな」と三四郎は気が付いた。第一のプロジェクトは三四郎プロジェクトであった。自分の理想の男性像と言う青写真があったのである。 

第二のプロジェクトは挫折した自己自身の内面の希望、欲望を娘達に投影することだった。文学少女として、いわば覚醒した女性としてハッキリとした自己意識を母は持っていたが、その実現を悉く父に破壊され抑圧されてしまった。大抵の女性はそれだけでナーバス・ブレークダウンになる。知性のある母はそこをぐっと堪えて娘達に青春の自己の希望を投影したのであった。

一郎が葬儀の時に「お母さんは芯の強い人だったね」と三四郎に言ったのはそういうことであった。といっても次から次へと生まれてくる子供の世話に忙殺される。母は多産系の家系だったのである。加えて一筋縄では行かない先妻のこども達のひきおこす数々のトラブルである。非常に厳しい要求を日常的に母にぶつける父の存在もあった。それらを切れ目無く捌いて行かなければならない。綿密な施行は出来なかった。そこで彼女がとった工法とは「自由放任」であった。

良い麦も育つ。毒麦も育つのである。母は選別刈り入れもしないで死んでしまった。おなじ種から色々な苗が出て来た。三四郎は性善説も性悪説もとらない。生まれてくる人間が全員善人であるというような馬鹿な話はない。同様に人間は全員悪人であるなどという気違い染みた説にも与しない。

三四郎の見る所、根っからの善人という人もいる。全体の20パーセントくらいの見当である。こんな統計は勿論ないし、統計処理の対象になることでもない。同様に生まれつきの悪人も20パーセントくらいいる。また、育て方次第、教育次第でよくも悪くもなる人たちが60パーセントくらいいる。だから家庭の躾とか道徳教育が大切なのである。

生まれつきの善人は心配ないのだが、生来の悪人気質でも教育や躾で良い型にはめることが出来るパーセントは20パーセント半分ぐらいはいる(つかみでね)。

結局俺の結論は性善説かな、と三四郎は思った。躾さえしっかりすればほとんどは善人になるんだからな。目の前のテーブルには母が躾を放棄して「自由放任」という形でプロジェクトした娘達がいた。彼女達を眺めながら三四郎は考えたのである。様々な形に育った女たちである。ちょうど剪定はさみを一度も入れられたことのない雑草の様に育ったバラエティゆたかな妹たちである。

 


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