店内にはほどよく計算された音量でピアノ・ソナタが流れていた。客同士の会話を聞きずらくするほど大きくはなく、聞き耳を立てないと何を流しているのかわからず、耳をくすぐられているような感じを催させる蚊の鳴くようなかぼそいボリュームでもない。ふと会話が途切れるとピアノの音が二人の間に割り込んできた。
「ベートーベンですかね」と音楽には自信のないTは言った。
「一番ですね」
「ベートーベンはピアノ・ソナタだと優しい曲を書きますね。私は彼の交響曲は苦手だな」とTは言った。老人はコーヒーを一口飲んだ。
「ところで今は碁打ち三昧ですか。毎日あそこにいらしているようですね」
Tはこの相当な年配の老人がなにか仕事でも持っているのかな、と兼ねがね思っていたので探ってみるようにたずねた。Tには老人がそれほど枯れ切った人物には思えなかったのである。どこかエネルギーが年のわりには体内に充満しているような印象を抱いていたのである。老人は眼をすぼめてしばらく彼を見ていたが、
「十年前に妻に死なれてからは、毎日することがなくてね。妻がいたころは年中旅行をしたりしましたがね。女性と言うのはどうして、あんなに旅行が好きなんでしょうね。東京にいるときは買い物に付き合わされたり、どこで調べるのか、おそらく女性の仲間と情報を交換しているのでしょうが、美味しい料理が食べられるとかいってレストランを回ったりで結構退職してもあちこちしていたんですがね。それが一人になると何もすることがなくなるんですな。ゴルフでもしていれば、会社時代の友人と誘い合わせてラウンドするんでしょうがねえ」
「なるほどね」とTは独り言のように呟いた。ワイフと別れる前はそう毎日市中を徘徊することもなかったなとTは振り返った。
「しかし、碁だけじゃ持ちきれませんや、一日は長いからね」
Tははっとしたように老人を見上げた。
「私も仕事を持っているんですよ」と老人はからかうように言った。「当ててごらんなさい」
「さあ、見当もつかないが、定年退職して余裕のある生活をしていらっしゃるようだから株でも運用しているのかな」
「外れ」と言ったきり老人は黙っている。
「さあねえ、見当がつきませんね。まさかどこかの会社に再就職されたとか。顧問とか嘱託とか。まさかそんなことはありませんよね」
しばらく老人は効果をはかるように黙っていたが「小説を書いているんです。一年に二冊長編小説をかくことをノルマにしています」
これにはTも意表をつかれた。「小説と言うと」と間の抜けたことを聞いた。
「ポルノですな。ハードボイルド風味の」と老人はすまして告白したのである。
「これは本当に驚きましたよ。昔から書いているんですか」
「なに、ここ五年くらいのことですよ」と老人は当たり前のように言った。