30:つまみ食い
「ところで」とクルーケースのキャリアが訊いた。「橘さんは何派なんですか」
「いやそういわれるとお恥ずかしい。昔からわたしは徒党を組むことが嫌いでね。無党派とでもいいますかね」
無党派?と一座は彼の素っ気ない返事を聞いて彼の顔を見つめた。
「いや、これはお愛想のない返事で申し訳ありません。強いて言えばつまみ食い派ですね。もうすこし上品な言葉で言えば多元主義とか折衷主義というんでしょうか」
「橘さんは少数派ということですか」
「まあね。しかし決め手のない業界だから結構『つまみ食い』を決め込む精神科医はいるんですよ」
「ようするにウィンドウ・ショッピング派ですね」と第九は要約した。
橘氏はびっくりしたように第九を見返したが、「フム、うまいことをおっしゃる」と膝を叩いた。
「医者のほうにもウィンドウ・ショッピングがあるというのは初めて聞いた」と禿頭老人が感想を述べた。
「たまにはあるようですよ。私の親父は町医者でしたがね、ややこしい患者に手こずると、医学部の同級生とか、むかし大学の医局で一緒に働いていた友人や先輩に相談することがありましたね。僕は父がそういう相談を電話でしていることを家で聞きましたよ」と第九は思い出したように言った。
「医者の側もそうだが、患者のほうでも医者が信用できないと思うとほかの医者に行ったりするよね」
「いわゆるセカンド・オピニオンですね」
「精神科なんかは病気の性質から医者を渡り歩く患者が多いような気がするが」
「そうなんですよ。二通りあります。一つは医者の言うことがしっくりしなくて医者を渡り歩くんですね。大体こういう患者は知能がたかい。そうかと思うと一方では、この先生でなければと一途に入れ込む患者がいる。女性の患者に多い。この種の女性にはストーカー的性向がある」
「橘さんも付きまとわれたことがあるんでしょう」
「それは橘さんが男性だからでしょう」と下駄顔が割り込んだ。
「そう、先生が女性の場合は男性患者ということになります。しかし男性患者ではそういうことはあまり聞いたことがないな」
「そうかもしれない」とクルーケースの運び人が言った。「新興宗教とかでも、教団を渡り歩くのは女性信者が多いらしいですよ」
「そうだね、本屋でも精神世界とかスピリチュアルとかの棚にいるのは女性ばかりだからね。やたらと色々な傾向の本を漁っているようだ」と第九は言った。
31:夏目さんの場合
女主人が思いついたように口を開いた。
「夏目さん、いい機会だからあなたの経験も先生に診断していただいたら」
「そういえば、さっきあなたは心理療法士のカウンシルをお受けになったとか」と橘氏は第九のほうを見た。
「そう、エレベータのなかで原因不明の発作を起こしましてね、卒倒したんです」
「へえ、それで?}
「会社の命令で会社の契約している産業心理士のところへ行かされました」と言いながら第九は珍奇な黒ずくめの小さな「心理療法士」のことを思い出して眉をしかめた。
「どういう症状だったんですか」と橘さんは興味を持ったようだった。
「満員のエレベータのなかでいきなり卒倒したのです」
「それだけですか? なにか特記するような異常な状況はなかったのですか」
「そうですね、二人の老婆が後から無理矢理に押し込んできましてね。異様に熱いと感じた体を押し付けてきた。ものすごい白粉のにおいをさせてね。それだけが記憶に残っていますね」
「エレベーターの中で気分が悪くなるようなことはそれまでにも何回もあったんですか」
「いや無いでした」
「それで心理士の見立ては」
「閉所恐怖症ではないか、というようでした」
クルーケースの男が口を挟んだ。「わたしは臭気アレルギーではないかと言ったんですよ。アレルギー検査を勧めたんですけどね。行きましたか」
「いや、すっかり忘れていましたよ」
橘さんはしばらく考えていたが、「白粉だけではなくて臭気には敏感なほうなんですか」
第九はちょっと考えてから「たしかにそういう傾向はありますね。嗅覚は非常にするどいほうですよ。ほかの人が感じないような臭いにいち早く気が付くことがある」
「幻臭ではなくて?」
「ゲンシュウとは」
「いやあまり使わない言葉ですが、幻覚とか幻聴とかいう、ない音が聞こえるとか」
「ああ、なるほど。幻聴なんて言うのは失調症の一症状らしいですね。いや私の場合は幻ではなかったですね。自分では犬並みだと思ったことがある。生理の女性なんか、人が分からなくても分かるときがある」
「証拠があったんですか」
「まあね」
「女性がきものを着ていても検知するんですか」
「ええ、血の匂いがね。一種独特の腐ったようなにおいがですね」
「あらいやだ」と長南さんが嫌悪を示した。
「気をつけなくちゃ」と女主人が言った。
橘さんは顎を撫でた。「ほかに特に不快に思うにおいがありますか」
第九は考え考え答えた。
「女性のつけすぎた香水ね。香水の付け方も知らない女が安香水をじゃぶじゃぶ振りかけているのも嫌ですね」
「いや、まったくそういう女性が増えましたな」と下駄顔が失笑した。
「香水の選択にも教養が現れますからな」と禿頭老人が補足した。
「大体、腋臭とか体臭のきつくない日本人が香水を使う必要はない。それもじゃぶじゃぶ振りかけるなんて悪趣味だ。香水のに匂いというのは彼氏にだけ分かればいいものだ。体温が0.5度上昇して香水がほのかに蒸発する。私準備OKよという合図を50センチ先にいる彼氏に送るのが香水の仕事ですよ」
「そういえば」と第九が気が付いたように言った。「男が臭い水をつけているのも反吐がでるね。オーデコロンだかなんだか、柑橘系だとかいって振りかけているのがいる」
「いやだね」
「電車の中でそういう男が隣に座ると席を移りたくなるね」
「そういえば、このあいだ、路上でジョギングしている半裸の男性とすれ違ったがこいつが臭水のにおいを発散させていた。ジョギングをするまえに振りかけたらしい。理解不能だな」
橘さんが思いついたように発言した。「たしかに臭気アレルギーということもありうるが、どうも女性恐怖症ではないかな」
「どうしてです」とびっくりしたようにクルーケースが反問した。
「白粉とか香水というのは女性を連想させる。それとも女性嫌悪症かもしれない」
「そんな病気があるんですか」と女主人が不信感をあらわにして疑わしそうに聞いた。
「あります。女性恐怖症はgynophobiaといいます。女性嫌悪症はmisogynyです」
32:最終診断
じゃ、それできまりだ。女性恐怖症だったんだ、と禿頭老人が断定した。
いや、むしろ女性嫌悪症でしょう、と下駄顔老人が訂正した。
「女性蔑視症よ」と口をゆがめて補足したのはアルバイトの長南さんであった。
若い女性のくせにかわいい顔をして露骨なことを言う女だと第九は腹の中で十二指腸のあたりをを少し顰めた。
いや、私は断定したわけではありませんよ。座談のなかで聞いた話で見当をつけてみただけですから、と橘氏は慎重に発言した。
そのとき隣のテーブルの上にある換気扇が異音を発した。このカフェは禁煙でもなければ分煙でもない。そのかわりそれぞれのテーブルの間は三メートル以上離れている。その上各テーブルの上の天井には換気扇がある。煙を感知すると静かな音をたてて換気扇が作動する設計になっている。普段は換気扇の音は気にならないほど、静謐性を保っているのだが、この時はガーガーと異常な作動音を発した。
みんなはそのテーブルのほうを見た。首のあたりに入れ墨だかボディペインティングをしたガタイの大きな三十くらいの男と水商売風の赤く染めた長い髪を肩のあたりから前に回して乳の上あたりまでたらした女である。ふたりとも茶色の紙で巻いたたばこを吸っている。
「おい、換気扇が壊れたのかな」と下駄顔が呟いた。たばこのにおいは換気扇の為にこちらまでは届かない。
「あれはマリファナじゃないのか」と銀色のクルーケースの男が言った。煙草を吸っていた二人ずれもびっくりしたように天井を見上げながら煙を吐き続けている。
「それで」と第九が橘氏に聞いた。「ほかの診断の可能性もあるのですかのですか」
「ウム」と呟いて彼は言った。「なんというのかな、もう少し傍証が必要でしょうな」
「たとえば?」
橘氏はパチンコ労働で荒れ気味の手のひらでピタピタと自分の顔を叩いた。
「あなたは異常に臭覚が発達していると言ったが、ほかの感覚はどうです。たとえば、聴覚とか視覚とか。非常に気になる音があるとか」
第九はしばらく考えた。「そうですね。音にはかなり神経質かな」
「たとえばどんなことですか」
「前にいたマンションですがね、上の部屋の住人がフローリングにしたんですが、それ以来いろいろな騒音が下の階にもろに響くようになった。それも子供が跳ね回るとか、掃除で家具を動かすとか想像がつく生活音ならうるさいな、と思うだけなんですが、電動機械を作動させているような音が頻繁にしたのです。町工場じゃあるまいし、何をしているんだろうと非常に気になりました。過激派が爆弾でも作っているのかと心配でした」
それで苦情をねじこんだんですか、と橘氏が質問した。
「いえ、我慢しました。マンションなんて言うのは壁一枚、天井一枚で隣人同士ですしね。エレベーターでも頻繁に顔を合わせるしね。苦情をいうと逆恨みされてエスカレートするなんて事件がしょっちゅうテレビで報道されるでしょう。それで我慢していたんですけどね。騒音というのは真下の部屋ばかりではなくて鉄筋コンクリートの建物では左右上下広い範囲に伝わるものらしいですね。とうとう管理組合が苦情をまとめてその部屋の住人に注意したらしい。マンションの掲示板にも警告をだしました」
「それで静かになりましったか」
「少しはね。タオルを巻いてから電動機械を使うのか、すこし音がこもったようにはなりました」
「なるほど、しかし今の話は特に音に神経質ということでもなかそうだ」
第九はしばらく橘氏の見解を頭の中で反芻していたが、「そういえば、」と口を開いた。
「参考になるかどうか、私は地下道などで下駄のような靴音を聞くと非常に不快になりますね」
「いまどき下駄をはいて歩いている人はあまりないでしょう」
「ええ、下駄じゃないんですけどね。女性でハイヒールで地下道を駆け回る若い女がいるでしょう。急いで遅刻しないように焦っているのかどうか。地下道のコンクリートの上を駆け回るとものすごく反響するんですね」
「そうそう」
「それと階段を駆け下りる女がすさまじい音をたてる」
クルーケースの男が言った。「ハイヒールだけじゃないですよ。サンダルみたいなのを履いているいるのがいるでしょう。あれもすごい騒音だね。階段なんかを降りるときには」
「それに足首がすりむけるのか、留め具をきっちり止めずにルーズにしているでしょう、大体。そうすると余計五月蠅いんだよね。僕なんかもそんなのが後から来ると振り返って睨みつけますよ」
「まあそうだろうが、夏目さんも真っ先に女性の下駄音が頭に浮かぶというのは面白い。気に触るものが白粉、香水、ハイヒールの音とくると、やはり女性嫌悪症が疑わしいかな」と橘氏が診断した。
33:三千世界のカラスを殺し主(ヌシ)と朝寝がしてみたい(伝高杉晋作、作)
重労働から解放されて眠りに落ちたのが午前三時、寝れば極楽、極楽というわけにはいかなかった。妻に脇腹をつつかれて目を覚ました。窓の外はまだ真っ暗だ。
「アンタァー」と彼女は問いかけた。アンあたりまでは低音でタァーで鼻にかかった高音になる。妻の地方の方言らしい。長屋の飯炊き女が亭主に甘えているようで気色が悪いと苦情を言っているのだが、一向に改めない。
「アンタァー、あれどうなった」とまた脇腹をつついた。
「あれって?」
「マンション法と憲法の関係よ。忘れたの」
「、、、、、」
無理だ。レム睡眠状態では理解できない。
「やってないの」と彼女の声はとがってきた。
「ああ、あれね」ととりあえずはぐらかす。
そうか、なんかそんなことを頼まれたな、マンション管理法と上位法の関係だったかな。
「いま調べているところだよ」と急場しのぎに答えた。
どこのマンションでも購入すると管理組合に知らない間に加入させられている。本人の意志も聞かない。そしてやたらと義務だ義務だといって総会に出席しろと部屋まで押しかけてくる。出席しないなら委任状を出せと言ってくる。不快に思って管理組合を脱退しようとすると出来ない。管理規約があっても脱退、退会の規定がない。欠陥規約である。憲法の結社の自由や民法の規定に違反するというのが妻の考えである。その辺を調べろというのが洋美のご下命である。判例があるかもしれないからそれも調べろというのである。第九はようやく思い出した。何にもしていないのである。すっかり忘れていた。
一体良心的に管理組合への加入を正式に本人に求めてきて、本人が同意して署名捺印したなんてケースがあるのか。彼の場合は無かった。それで知人に経験を聞いてみようと思って何人かに声をかけた。一人だけ、事前に管理規約(案)を渡されて署名捺印を頼まれたのがいたが、とても断れるような雰囲気ではなかったという。やたらと長い規約で読んで理解するのには一週間以上かかりそうだったのでまあいいや、と押印した。
なにか不都合があれば退会すればいいやと気軽に考えたそうだ。ところが、あとで規約を読んで驚いた。どこにも退会の規約がない。おまけに解散の条項もなかったという。こんな欠陥法が許されるのかと怒っていた。
上位法との関係は調べていない。しかし明らかに憲法違反だろう。結社の自由はたしかにある。しかし、それは結社を作る権利を禁じることが出来ないという趣旨だ。結社の活動に同意できなくなれば構成員には脱退の自由がある。それを禁止するがごときは基本的人権の侵害である。調べるまでもないようだ、と第九は思った。しかりキャリア・ウーマンである洋美は起承転結の整ったまとまったペーパーがないと納得しないのだろう。それもA4で10枚位の、やれやれ。
退会規定がないなんてまるで新選組ではないか。やめたいと申し出ると切腹させたという。
34:妻のジム通いのこと 十月十日
二度寝の味寝(ウマイ、失礼ながらルビをふらせていただく)にようやく落ち込んだ第九はまた脇腹を邪険に突かれた。洋美がすり寄ってきた。体が異常に熱い。これはまずいな、と思ったと思う間もなく彼女の太い二の腕が伸びてきた。週に二度はジムに通って鍛えている体である。ヒョイと持ち上げられて彼女の腹の上に放り上げられた。気が付いた時には彼女の腹の上に跨っていた。こうなれば抵抗するとかえってまずい。習慣的なギッタンバッコが始まった。
週二度のジム通いで彼女の腹筋は鍛え上げられている。第九の体はしけの海の小船のようにはげしく動揺した。彼はジョイントが外れないように彼女の体にしがみついた。ジョイントが外れると彼女はそれが彼の責任であるかのように猛烈に怒り出す。彼はめまいがしてきた。失神するのはエレベーターの中だけではないらしい。
とその時爆弾が破裂したような音がした。第九ははっとして意識を回復した。洋美の全身の筋肉も防御態勢を取るかのように収縮した。続けて二人の耳に二度目、三度目の爆発音が響いた。隣の部屋の男(女かもしれない)が慣例の早朝くしゃみを思いきり連発したらしい。なんだ、ヤツの例のくしゃみか、とおかしくなった。彼女も笑い出した。鍛え上げた全身の筋肉が弛緩した。たくましい腹筋を震わせて笑い出す。途端にジョイントが外れて彼はいったん上に放り出されてからうつぶせの姿勢のまま落下した。彼女のたくましい裸身の肩に鼻梁をぶつけた。
しまったと思う間もなく、間髪を入れず、というよりおい一拍おいてから鼻孔からヌルヌルした液体が流れ出した。あわてて彼は鼻の穴を右手の甲で抑えながらよろけるようにベッドから降りティッシュを求めて真っ暗闇の寝室をメクラ滅法に動き回った。鼻血はベッドの上一面にまき散らされ、床のじゅうたんにこぼれた。「どうしたのよ」と洋美は暗闇の中で怒鳴ったが、手がベッドの上に落ちた血だまりの上に触ると慌てて手を引っ込めた。さっと立ち上がると狙い過たず一発で電灯のボタンを探り当ててスイッチを押した。
彼女は寝室の惨状を目にして絶叫した。隣室のくしゃみよりも数倍大きな声であるから、隣室の住人にも聞こえたに相違ない。聞き耳をたてているのか隣室はシーンとしてしまった。驚いてくしゃみもとまってしまったらしい。
四十路に達しようかという女性でもある。キャリアウーマンとして、会社では若い男たちをパワハラまがいに叱咤する彼女であるが、やはり女である。少女趣味のバカでかいキンキラキンの「豪華」ベッドが部屋のスペースの80パーセントを占領している。このベッドは二百万円以上したらしい。それが血潮で回復不能なまでけがされたのである。彼女の怒り方が尋常ではないのもよく理解できる。
35:雲量10パーセント
江東区の天守閣から見渡す空は雲量10パーセント雲底3000メートルで視界は100キロメートルに達していた。北方には筑波山が黒々と見える。ケーブルカーがキラキラ光を反射してるのが見える(これはうそ)。相模湾から侵入して首都西部上空を通過して関東平野を北進し大被害をもたらした台風二十九号は東北岩手県沖合に去った。
恐ろしい一夜であった。五十階のベランダの隔壁は今にも破れそうに一晩中歯ぎしりのような音をたてていた。幸い(と言っては被災した地方の人たちには失礼だが)城東地区の被害は二週間前の台風二十号ほどのことはなかった。二十号では強風が換気扇から逆流して室内の床の上に黒い綿のようなごみが一面に落下したが、今回それはなかった。恐ろしい音を一晩中たてていた隔壁やガラスの手摺りも朝起きてみるとひび割れが起きていない。雨よりもとにかく音がひどかった。洋美はさすがに女である。一晩中第九にしがみついて震えていた。そんなわけでベッドに粗相をして以来パワハラを受けていた妻からの攻撃もひとまず休止となっていた。
ここ数日床の上に直に一人で寝かされて、地獄の底に落ち込んだように意気阻喪していた第九も晴れ渡った空を見上げてひさしぶりに「カフェ」に行くことにした。ところで気が付いてみると、このカフェはまだ名前がない。以後「ダウンタウン」と命名しよう。伸び放題の髭をあたり髪に櫛をいれて出来るだけやつれた姿を見せないように身支度をすると定食屋で昼飯を掻き込んでからダウンタウンに行った。
「おや、ずいぶんご無沙汰でしたな。お元気でしたか」とやつれた第九の顔をしげしげと観察しながら禿頭老人が卵型の顔に笑顔をつくって迎えた。
「ええ、ちょっと風邪をひきましてね」
「夏風邪はひどくなるから気を付けないとな」と下駄顔が言った。
「そう、いまごろ風邪をひくとなかなか治らないからね。気を付けないと」
久しぶりに顔を見せた第九の姿をみて女主人があいさつに来た。
「しばらくお出でにならないので夏目さんはどうしたのかしら、って噂していたんですよ。どこかに旅行にいらしていたんですか」
「質の悪い風邪を引いたんだってさ」
「まあ、そうですか。もうよくなったのですか」
「ありがとう、おかげさまで」
女主人は目をすぼめてじっと彼を見ていたが「すこしお痩せになりましたね」
「そうですね。一週間ばかり夢うつつの状態でね。ようやっと目が覚めたという感じです」
「コーヒーはいつものとおりで?」
「いや、一週間ぶりに目が覚めるようにいつもより増量してください。砂糖もね」
「どのくらい?」
「そうですね、コーヒー大匙三倍、砂糖は二十グラムほど」
「それだけ濃くすればいっぺんにしゃきっとしますね」
女ボーイが持ってきたコーヒーを一口飲むと、第九は満足そうに頷いた。
「ところで又妙な夢を見ましてね」と下駄顔老人に話しかけた。
「またというと」と老人はポカンとした顔をした。
「空襲警報のアナウンスを夢の中で聞いたんです」
「空襲警報の放送なんて聞いたことあるの」と老人は疑わしそうな表情をした。
「もちろんありません。戦争中は生まれていなかったんだから」
「じゃあテレビドラマかなんかの中で聞いたのかな」
「さあ、それははっきりとは思い出せないんですけどね。すくなくとも記憶にはないのです」
「どんな風に言ってました」
「空襲警報発令とかアナウンサーが言ってね。それから『敵機大編隊が相模湾上空から侵入、帝都に向かいつつあり。厳重な警戒を要す」みたいな。それからウーウーウーという警報が流されましたね」
禿頭老人が口をはさんだ。「そういえば救急車のサイレンが今のようにピコピコ鳴り出したのはいつごろからだったかな」
「さあ、ずいぶん昔でしょう。昔はどんな音だったんですか」
「空襲警報と同じさ。ウーウーウーって鳴らすのさ」
「へえぇ」
下駄顔が話を戻した。「あんたの言うとおりだったと思うよ、大体は」
「まるで昨日の台風の進路と同じみたいね」と女主人がつぶやいた。
「そうなんですね、それでちょっと妙な気がしてね。しかも聞いたこともない空襲警報発令の放送まで夢で聞いてね」
「ははぁ」と下駄顔が膝を叩いた。「わたしも台風はまるでB29の襲来経路と同じだと昨夜は思った。アメリカさんは富士山を目印にして相模湾から本土に侵入して東京に向かったからね。その時に無意識下で、阿頼耶識の第七層あたりで空襲警報のことを思い出したかもしれない」
「アラヤシキって人の名前かなんかですか」と女主人が首をかしげた。
「いやいや、仏教でいう無意識ですよ。フロイトの無意識には階層なんてないが、仏教では無意識は何十層もあるんですよ。そういえば、あなたは何時か後楽園の高射砲のことを聞かれましたな。あの時も冗談にあんたは子供の時の記憶が剥離して飛んで行ったかもしれないなんていったが」と卵型禿頭老人を見た。
「ああ、そうでした」
「しかし、あなたも相当に感度がいいアンテナをお持ちのようですな」
「そうでしょうか、ご老人の記憶の飛翔力も大変強力のようですが」
「ははは、別の言葉で言えば脱魂と憑依ということですかな」
36:つばさよ、あれがタマシイだ
記憶の細片が剥離して空中を飛行浮遊するというのはオカルトの世界ですが、魂が空中をうようよしているというのは結構一般的な話ですね、と第九は応じた。「それでそういう彷徨える魂が格好のカモを見つけて急降下して取り付くなんて言う説がある。そういうのを憑依というんですかね」
「そうだね、日本では古くから言われていることだ。もっとも仏教系ではなくて神道系や修験道系で言われることがおおいようだが」
「ところで魂というのは総合体なんですか」
「総合体というと」
「例えば生きているときは人格があるというでしょう。人格というのはもろもろの心的機能の総合した塊じゃないですか。死ぬと魂が肉体から抜けていくというが、その場合の魂というのは生きていた時の人格的総合体と同じなんですか」
「うーん」と禿頭は唸った。「いい質問だね」。いい質問だね、の謂いは答えられないときに発する時間稼ぎである。
一座はシーンとしてしばらく静かになってしまった。とうとう下駄顔が言った。
「それにはいろんな説がある。一般的にはそれは生きていた時は塊と言うか連合体というか総合体だが、諸説あるようだ。戦前の国家神道のビッグネームでミソギを体系化した川面凡児(カワツラボンジ)という人がいるが、彼なんか魂は八百万の原子からできていると言っていた。そして死ぬとそれがバラバラになる。もちろん、ある程度のまとまりを残している場合もある」
「それで、八百万の原子魂はどこへ行くんですか。全部空中に浮遊しているんですか」と哲学専攻ながら若い女性らしくこの種のスピリチュアル系のおとぎ話には滅法弱い長南さんが訊いた。
さあね、と長南さんの若い女性らしいしつこさに辟易したように下駄顔は前方に反りだした顎に生えた無精ひげをなでた。「一部は成層圏を突破して宇宙のかなたに行くんでしょうな。若い女性が好む表現を使えば『お星さまになった』んですよ。しかし、神道では大部分は低空で浮遊しているらしい。平田篤胤もそう言っている」
「平田篤胤って」と長南さんはあくまでもしつこく聞く。
「幕末の国学者ですよ」と見かねて橘さんが口を挟んだ。
「どうして空中に留まるんですか」と質問魔の長南さんがねばった。
「それはね」と下駄顔が幼児を諭すように話した。「地球の重力に逆らえないんですよ」
「なんでですか」
「なんでって、魂のかけらだって微小な重さがあるからですよ。地球の重力を突破できないのさ」
「なんだかライプニッツのモナドみたいね」とあきらめたように長南さんが呟いた。
「八百万個の原子タマシイが夫々自分の中にミクロコスモスを持っているならモナドだけどね、むしろレウキッポスのいうアトムじゃないのかな」と橘氏が補足した。
「そういえば」と思い出したように第九が言った。「私のマンションに国内線のパイロットが住んでいるんですがね、釜石あたりの上空を飛ぶと魂が浮遊しているのか鬼火のようなものが燃えているのが見えるそうですよ。特に新月の夜などにね」
「つばさよ、あれがタマシイだ」だね、と禿頭が受けた。
37:たましいは死後変化するのか
女主人が疑わしそうに聞いた。「神道では昔からその、粒子説なんですか」
「おくさん、その辺は詳しくないんですよ、そちらのほうは専門ではないので」と橘さんは頭髪を後ろから前に撫でた。短く刈っているし、短いのでそういう芸当が出来るのである。
「どうなんですかね、菅原道真なんか怨霊になって京都に現れたというから、生きたていた時と同じカタマリだったんじゃないですか。八百万にも分割したら京都在官時代のいじめられた恨みなんて保持しているわけがないもの」と理路整然と長南さんが主張した。
「キリスト教や仏教ではどうなんですか」と奥さんが別方面からさらに追及した。
「さあ、どんなものですかな」と橘さんはしばらく考えていたが、「やっぱり生前と同じ人格、人格というのはおかしいが、そういうカタマリを維持しているという前提でいろいろと言っているようです」
「仏教の地獄だとか閻魔様の取り調べなんて言うのは生前のカタマリじゃないと、分解していしまっていたら追求のしようがないですからね」と奥さんがうがったような意見を開陳した。みんなびっくりしたように奥さんを見た。
「それにキリスト教でいう最後の審判なんていうのも、生前の魂が全体として残っていないと意味をなさないね」と気が付いたように第九が言った。
「ところで人格と言うか性格は生前でも変化するでしょう。成長につれて性格が変わらない人もいる。かと思うとどんどん悪くなる人もいるし、逆にだんだん真人間になる人もいまさあ。そうするとどうなんだろう、死後の魂も変化しないとおかしいね。水平飛行の魂もあるし、よくなる魂も悪くなる魂もなければおかしい。その辺の変化を勘定にいれているんですかね。仏教とかキリスト教は」
これには橘さんは即答した。「いれちゃいませんよ」
「宗教ってずいぶんいい加減なものなのね」と長南さんが切り捨てた。
「そういえばさ、よく駅前で、暮れになると、陰気な声の録音を流しているのがいるだろう。『悔い改めなさい。そうすればすくわれる。まだ間に合う』なんてぞっとする声の録音を流しているのが」
「あの声を聞くと小腸から冷凍されてくるね、ぞっとするよ」
「いるいる、今年もそろそろ出てくるころだな」
「彼らに聞いたってわかっているわけはないが、死んでからもしタマシイが悔い改めたらどうなんだろうね。間に合うのかな。それとも死ぬ前に悔い改めないとだめなのかな」
「まだ間に合うなんて無責任なことを言っているが根拠があるのかな」
「要するにだな、魂は死後腐るか、腐らないかということだろう」と下駄顔が決めつけた。
「肉体のように腐敗するのか、そうではないか。なるほどね。しかしその問題を取り上げた宗教も哲学も皆無のようですね」と橘さんが言った。「素朴に魂は死後も腐らず、あるいは変化せずというのかな。かなり迂闊な前提に立っているようだ」
「生前は人間の魂が向上する人もいれば、堕落する人もいる。それが死んだあとは永久凍土に埋もれたマンモスのように千年も万年も変わらないというのもずいぶん素朴な考えですね」と第九が述べた。
38:タマシイは死後も統一体であるか、長南さんの下した結論
若く美しい女性哲学学徒である長南さんは珍しく静かにしていた。なにか思いつめたような表情をしていたが、突然何かがひらめいたかのように叫んだ。
「タマシイ(魂)という字の偏を土にかえるとカタマリ(塊)という字になるわけだわ」
下駄顔がびっくりして彼女を見た。「本当だ、それで」と聞いた。
「つまり死ぬと土くれのかたまりになるわけじゃないの!」
「なるほど、大発見だ」と禿頭老人は訳が分からないまますぐに何時もの通り美女の云うことに同意した。
「それで?」とクルーケースの男がきいた。
「つまり、死んでも魂は塊のままであることじゃないの」
「ふむ、面白い」と橘さんは思案顔に言った。「少なくとも漢字作者はそう思っていたという解釈は出来そうだ」
長南さんはびっくりして橘さんを見た。「漢字作者というと?」
「古代シナ人でしょうな」
「漢字というのは分解してみると面白いね」と第九は割り込んだ。「たとえばタマシイ(魂)という字の旁はオニという字でカタマリ(塊)と同じだが偏は『云う』だ」
「これをどう解釈しますか、橘さん」
突然話題をふられた彼はすぐには返答しなかったが、たちまちこのトンチ問答に回答を見つけた。「オニとはなにか。民俗学者や哲学者、言語学者それぞれに解釈があるだろうが、これは『動物的精神』ということではないかな。そういう解釈もできそうだ」
「なるほど、それで偏の『云う』はどういう意味を付与しますか」と第九が聞いた。
「そこですよ、『いう』ということは人間だけが出来る。動物的精神(あるいは動物的生気)に人間の知性が付与されたとかね」
下駄顔が感嘆したようにうなった。
「言うという人間の脳活動は古代ギリシャの哲学者風にいえばロゴスに通じる。つまり論理的活動とか知性という意味があるだろう。つまり動物的生気に人間的知性が上乗せされたものということになる」
「うまい!」と叫んだのは卵型禿頭老人であった。長南さんがこの説を反芻咀嚼するには時間がかかりそうであった。哲学徒であるだけに慎重に吟味しているようであった。
39:サイコロ鼻の女の思い出
ようやくクリーニング店から戻ってきたマットレスの上に敷いたまっさらの敷布に第九は一人で体を伸ばして寝ていた。洋美は出張でアメリカに行っている。シーツは糊でゴワゴワしている。マットレスからは何を使って第九の鼻血を落としたのか、かすかに薬品のにおいがする。普通の人間には及第点の薬品なのだろうが、犬並みの臭覚の保持者である第九の感覚を逃れることは出来ない。
そのせいか深夜二時半に彼は目が覚めてしまった。トイレに行って排出、そのあとでコップで水を一杯飲む。深夜に目が覚めるとすぐには寝付かれないので、パソコンを少しいじるか机の上に放り出してある本をちょこっと読んで眠くなるのを待つのであるが、今日は何もする気がしなくて再びベッドに戻った。
やはり入眠できない。彼はめったにつけたことのないラジオの深夜放送を聞いた。小林アキラの特集をやっていた。それを聞いているうちに会社にいたころのことをいろいろと思い出してしまった。それが嫌な経験、嫌な奴ばかりが記憶に浮かんでくる。深田某、池村某、細川某、横山某、名前は失念したが監査室の某など。よくも覚えていたものだ。A4用紙がいっぱいに埋まるような長いリストが出来た。退社以来一度も思い出したことのない連中がほとんだ。妙なものだ。小林アキラの歌がなぜこんな長い記憶のリストを湧出させたのだろう。最後に女の顔が出てきた。
彼女に別に嫌な思い出があるわけではないのだが、トリは彼女だった。不思議だ。実際彼女のことは一度も思い出したことがないのである。サイコロのような鼻をつけた女であった。六面体のサイコロを唇の上に張り付けて『二』の面が下向きにある。いわゆる鼻の孔である。彼女の名前も知らない。あるいは知っていたかもしれないが思い出せない。会社で時々見かける総務部にいた三十路に近かった女性である。
その彼女に家の近くであったことがある。そのころ第九は『ホステス達のベッドタウン』と言われた私鉄沿線駅の近くに住んでいた。残業で遅くなり、駅を降りたのは十時を過ぎていた。駅の近くの盛り場の細い路地を通り抜ける。その先にはもう店を閉めたパチンコ屋があり、その先にはラブホテルの群れが建っている。その細い路地を歩いているときに向こうから彼女が来た。おや、と思って彼女を見た。サイコロ鼻は今夜は幾重にも油を塗り込んだように街灯の光を照り返している。狭い路地で彼が思わず立ち止まって彼女を見たから相手も気が付いたはずなのに全然知らん顔をしている。そのまま二人は行き過ぎたのである。妙な女だと思ったが翌日には忘れてしまった。
それが今日の記憶のトリに現れた。そして突如悟ったのである。あれは彼氏との密会の帰りではなかったのかと。そういう引け目があれば会社の人間にあっても防御的に気が付かないふりをするかもしれない。不思議なのは何十年もそのことを思い出しもしなかったのに、突然その意味をさとったことである。
人間の記憶というのは分からないものだ。そういえばダウンタウンで誰だったか、禿頭老人だったかが、記憶の先入れ後出しなんて言ったことがあった。まったく古い記憶なんていつ飛び出してくるか分からない。大体記憶に残っていたこと自体が不思議なのだが。さて、昨日の夕食はなにをくったかな、と第九は考えた。妻が出張中で一人なので食料の備蓄もいい加減になっている。昨夜は冷蔵庫を漁ってもなにもなかったので、板チョコを一枚も食べてしまった。そのせいかな、と彼は思った。