穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

再読前の仮説設定『白痴』

2011-06-28 07:48:13 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーの白痴、まだ本文に入らないのかよ、と怒られそうだが読前に仮説を立ててみたい。

長編と言うのはどのくらいの長さをいうのか、普通五大長編といわれて、罪と罰、白痴、悪霊、未成年、カラマーゾフの兄弟をいうが、たとえば新潮文庫で言えば二分冊ないし三分冊になる。

死の家の記録や虐げられた人たちも長編と言っても差し支えないが、区別しているようだ。ま、分量の問題で便宜的なものだからどうでもいい、と言える。いや言えない。これからの仮説設定では。

長編では複数視点の問題が重要になる。死の家の記録では観察者の一人称視点だから登場人物は多いが内容の緊迫性は損なわれていない。虐げられた人たちではやはり観察者の視点ではなかったかな。それに登場人物もそう多くない。イベントの同時進行、輻輳も少なかったと記憶する。

罪と罰はラスコリニコフ視点だからドストエフスキーの大きな魅力である冗長性と緊迫性が矛盾なくいかされている。白痴から登場人物たちが勝手に動き出すのだが、最初の試みであるこの小説では技術的に未完成だったのだろう。それがかって読んだときに散漫な印象を与えたらしい(再読の際に検証する仮説になる)。

悪霊は複数視点と言えるが観察者を膠として黒子として入れてあるし、技術的にも二作目で深化した(進化)と言える。

未成年で再び一人称視点に戻る。、この小説はかなり散漫だが、一人称視点のおかげで印象に残るものが多い。

カラマーゾフでは技術的に進化していて、何が何だか分からないという混乱は少ないが、惜しむらくはドストエフスキーの寿命と関係あるのだろう、文章に潤いが少ない。表現に類型的なものが多い(だから分かりはいい)。