穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ハイデガーも言葉遊びがすぎる

2016-05-08 08:05:42 | ハイデッガー

 

ハイデガーの「現象学の根本問題」作品社の「序論」と最後の「テンポラリテートと、存在というアプリオリ。存在論の現象学的方法」を読んだ印象である。

要するに現象学というのは「哲学」のことなんだね。もっと彼の意に即して言えば「本当の来るべき哲学」なんだ。ではなぜ現象学なんて言う必要があるのだろうか。H氏お得意の語源遊びがあるかと思って読んだが何の説明もない。 

「これぞまさに現象学などというものはありませんし、、」

「対象に近づけさせてくれるそのときには、、当の方法を必ず滅びさせてしまいます」とうまく逃げている。520頁

そうかと思うと、現象学には三つの方法(分野?)があるという。現象学的還元(内容不明、説明なし)、現象学的構成(内容不明、説明不明)と既存の哲学の解体(これは意味はわかる)があるという。44、45、46頁

お得意の語源遊びはアプリオリについての講釈ではじまる。これはギリシャ語ではなくラテン語である。この辺も胡散臭い。アリストテレスもプラトンも同じことをいっているというなら、なぜハイデガーが博識を誇るギリシャ語遊びをしないのか。

最大の問題は「アプリオリは時間的に先立って」という意味であると断定する。言葉という物は多義的な意味を持つ。時間的に先立ってという意味にも使う。しかし優先的にという意味もある。このラテン語から出て来たと思われる(というのは念のために英語の語源辞典を参照したが、ラテン語の語源は触れていなかった)priorityということばは優先的にという意味で使われる。

また、その他に演繹的に、とか推定とかいう意味もある。これらはいずれも時間とは関係がない。また、カントがアプリオリという言葉を中心概念として使った訳だが、カントの場合は時間的に先行しているというふうには受け取れない。ハイデガーは非常に強引という印象を受ける。

しかも、この時間制が彼の哲学、人間と存在の関係や存在論のキモとなっていることを顧慮すると、軽々に見過ごせる問題ではなかろう。彼の主著は「存在と時間」だし、彼の哲学のいわばキーワードでもあるわけだから。

語源遊びで哲学をするな、ということである。以上が昨日哲学を学び始めた当ブログの意見であります。

なお、凝り性のわたくしはラテン語の辞書も調べました(図書館で)。物好きですね。それによるとpriorとは、よりすぐれた、大切な、根本的な、という意味です。aは冠飾詞というか言葉の前につけて、離れた、と言う意味だそうです。超越的に通じますね。はなれて根本的な(大切な、よりすぐれた)というなら私達がカント等の用例から受け取る印象に近い。

 

 


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