穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

演劇と小説のハイブリッド

2022-10-14 07:07:42 | 書評

 ドラマティックというと劇的、ドラマチックというのかなカタカナ表記では、辞書にはそれしかないが、普通は劇画的なおどろおどろしい変化にとんだ、びっくりすることの連続ということだが、私が安部公房の燃え尽きた地図(ほかの作品もそうかもしれない、とにかく読了した唯一の作品「燃え尽きた地図」についてのことである。ここで言うのは作劇上の、と言ったほどの意味で言っている。
 ドラマチックというのは作劇上のテクニックについてである。具体的に言うと段落ごとに、登場人物が入れ替わるたびに彼は安倍晋三であるとか、何とか何子であるとか作者は紹介しない。芝居の場合、観客は舞台を見ればわかる。だから芝居ではキャラが入れ替わるたびに人物(小説で言えば主語)がこの段落ではA子ちゃんですよとかB氏ですよとか断らない。これを小説でやるのが安部公房である。
 聞くところによると(正確には読むところによると)、安部公房は芝居も沢山書いているらしい。その手法で小説もやる。もっともそれだけでは小説にはならない。彼の場合モノローグ的な記述が長々と続く。これは芝居の役者にはできない。心境だとか、心象風景だとか、表象、知覚の記憶の記述が延々と続く。これを要すれば彼の(コノ)小説は芝居と小説のハイブリッドである。
 この手法が意識的に取られているとすると、安部の狙いはなにか。読者は戸惑う。読者はそこで本を放り出すかもしれない。もっと真面目な読者、つまり作者に敬意を持っている読者は考える、この段落のナレイターは誰だろうかと。そしてそんなに難しくないから、ああそうかと思う。真面目なファンにこの間を取らせることが作者の狙いかもしれないね。



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