ドストエフスキーの「罪と罰」は三部で構成される。別に文庫本で上中下に分かれているからという訳ではない。内容的にである。すなわち、犯行計画、犯行を正当化するまでの心理的葛藤が第一部、第二部が高利貸しの婆さんの殺害、第三部がラスコリニコフの心理的葛藤、錯乱、そして検察との駆け引き。最後は罪を認めてサバサバする(この表現はもっとうまい言い方がありそうだが)。
ハイスミスの見知らぬ乗客も構成上はまったく同じ、ドストの愛読者だったハイスミスは当然踏襲した者と思われる。第一部は交換殺人のアイデアをサイコがたまたま汽車で乗り合わせた常識的、受動的な相手に持ちかける。勿論談合がまとまる訳が無い。一方的に暗示をかけたわけだ。
第二部はサイコ(ブルーノー、あいてのガイに同性愛的執着を持つ)が一方的に離婚協議中の相手の妻を殺害する。そしてガイに自分の父親を殺害するようにストーカー的につきまとい、相手を追い込む。受動的なガイはついにブルーノーの計画を指示通り実行する。
第三部は殺されたブルーノーの父親の会社の探偵が活動を始め二人にたどり着く。
第四部あるいは第三部終末はガイが切羽詰まって殺された妻のボーイフレンドに告白に行く(いささか説得力に弱い展開)、そして相手に信用してもらえないが、こっそりつけたきた探偵に告白をきかれてしまう、という結末である。
さて各部の出来映えはというに、第一部は並、第二部はやや良し、第三部は退屈というところか。
叙述は三人称複数視点だが、ガイのモノローグ的なところが多い。これはブルーノーのモノローグを多用した方が効果的ではなかったか。常識的なガイの内的対話を書いてもあまり面白いものにはならない。
このプロットではサイコのブルーノーをどれだけ活写できるかが出来映えの鍵である。その点ではガイに比重を置きすぎた叙述が作品を退屈なものにしているのではないか。
余談であるが、冒頭の見知らぬ乗客の出会いなどドストの白痴冒頭を連想させる。確かに彼女の愛読書はドストであったと思わせるところが色々ある。
クライム・ノヴェル(サスペンスもミステリーもハードボイルドも含めてこれらの上位概念は犯罪小説ということになろうが)としては三部構成というのはどうなんだろう。少ないのではないか(素人考えである)。
大体犯行からはじまり、犯人を推理して行くのが一つのパターン:推理小説、みすてりー、ハードボイルド、警察小説
計画から始まり犯行に至るのが、なんだろう、:サスペンス、ノワールの大部分、アクション、ホラー
こんなところかな、三部構成の『罪と罰」タイプはこういう分野の小説ではマイノリテイじゃないのかな。
ハイスミスの見知らぬ乗客も構成上はまったく同じ、ドストの愛読者だったハイスミスは当然踏襲した者と思われる。第一部は交換殺人のアイデアをサイコがたまたま汽車で乗り合わせた常識的、受動的な相手に持ちかける。勿論談合がまとまる訳が無い。一方的に暗示をかけたわけだ。
第二部はサイコ(ブルーノー、あいてのガイに同性愛的執着を持つ)が一方的に離婚協議中の相手の妻を殺害する。そしてガイに自分の父親を殺害するようにストーカー的につきまとい、相手を追い込む。受動的なガイはついにブルーノーの計画を指示通り実行する。
第三部は殺されたブルーノーの父親の会社の探偵が活動を始め二人にたどり着く。
第四部あるいは第三部終末はガイが切羽詰まって殺された妻のボーイフレンドに告白に行く(いささか説得力に弱い展開)、そして相手に信用してもらえないが、こっそりつけたきた探偵に告白をきかれてしまう、という結末である。
さて各部の出来映えはというに、第一部は並、第二部はやや良し、第三部は退屈というところか。
叙述は三人称複数視点だが、ガイのモノローグ的なところが多い。これはブルーノーのモノローグを多用した方が効果的ではなかったか。常識的なガイの内的対話を書いてもあまり面白いものにはならない。
このプロットではサイコのブルーノーをどれだけ活写できるかが出来映えの鍵である。その点ではガイに比重を置きすぎた叙述が作品を退屈なものにしているのではないか。
余談であるが、冒頭の見知らぬ乗客の出会いなどドストの白痴冒頭を連想させる。確かに彼女の愛読書はドストであったと思わせるところが色々ある。
クライム・ノヴェル(サスペンスもミステリーもハードボイルドも含めてこれらの上位概念は犯罪小説ということになろうが)としては三部構成というのはどうなんだろう。少ないのではないか(素人考えである)。
大体犯行からはじまり、犯人を推理して行くのが一つのパターン:推理小説、みすてりー、ハードボイルド、警察小説
計画から始まり犯行に至るのが、なんだろう、:サスペンス、ノワールの大部分、アクション、ホラー
こんなところかな、三部構成の『罪と罰」タイプはこういう分野の小説ではマイノリテイじゃないのかな。