「孤独の発明」の次に書いたいわゆるニューヨーク三部作を読んだ。まず「ガラスの街」。
三部作全部についてだが、彼の小説は建物の骨組みだけが露出している印象である。構成というか趣向がもろに出ている。ちょっと読むと最初から分かってしまう。彼のその後の小説は読んでいないから、同じような性格があるのかどうかはわからない。
依頼人から私立探偵と間違えられた作家が、その間違いに乗っかって探偵に成りすまして依頼人のためにストーカー(なんとこれが父親である)を見張るという話だ。いかにもミステリー風だが、この小説は原稿をもちこんだ17の出版社に拒絶されたという。訳者はあとがきで「こんなに面白い小説がなぜ断られたのか」と不思議がっている。読むと分かるが不思議でもなんでもない。探偵小説を装って違うことを書いてもいけないという業界の不文律はアメリカでもないと思うが、趣向の変わった小説として先入観なしに読んでも叙述は退屈でごつごつしている。無駄が多い。もし当時採用されても編集者にカットされたり書き直されたりしたであろうところが多い。
訳者はあとがきで「圧倒的に惹きつけられたのは透明感溢れる文章」と詠嘆調で書いているが、そうかな。この小説が現在一応読まれるようになっているのは、その後の作品でオースターが読まれるようになって一応初期の作品にも読者がついたということだろう。こういうことは日本でもよくある。
オースターは詩人として出発したというから、文章には優れたところもあるのだろうが、詩というのは原文で読まないと評価できない。すくなくとも本書はそのような印象を与えない。あるいは英文で読めば違うのかもしれない。
ストーカーも自殺し、依頼人も失踪して、主人公もからかわれていたらしいと暗示している。まあどんでん返しとでもいうか。訳者の言葉を借りれば「伝統の転倒」ということになるのかもしれない。