穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

「克服される」って

2014-12-20 23:22:32 | ヘーゲル

 ヘーゲルをボケ防止用に読んでるって話しましたっけ。

この書評ブログも10年近くやっていますが、取り上げる本にも大まかな種類がありまして、まずセンチメンタル・ジャーニーとでもいうべきもの。

前回取り上げたレイモンド・チャンドラーのような、かって読んだ本の再読もの。それからニュース性のある本の書評。これは週刊誌の書評欄で取り上げるような、芥川賞とか、何々賞をとったもの、発売ひと月で百万部突破とか一般のニュースになるようなものです。

ブログもアクセス数いのちというわけで、ベストセラーでも取り上げればアクセスが増えるかなとゲスな根性でとりあげるもの。さすがに最近これはしなくなりました。面白くもない下らない本をアクセ数売り上げのために読むのが苦痛でバカらしくなったためでもあります。

また、眠れない夜の睡眠導入剤として読む本、ボケ防止に読む本。哲学書なんかがそうですね。最近はヘーゲルを読んでいます。これは時間がかかって、単価の高い本が多いですが、ならすと時間当たり購入単価も安くなるというもので。

いま読んでいるのが長谷川宏訳のヘーゲル「論理学」(エンチクロペディー第一部)です。これが結構なお値段で消費税を入れると5千円を超えます。でまた例のスケベ根性が頭をもたげて、どうせ読んだんなら元をとろうとブログにアップしています。ブログにアップするともとが採れるのかな。自信がないが 

最近も書きましたが、長谷川宏の訳は平易だとの評判ですが、どうも引っかかるところがある。些細なことかもしれませんが「媒介する」とか「媒介されて」という訳語が頻発する。どうも気になるということをアップしました。

その後「克服されて」という訳語が頻出する。これも違和感があって、前回書いた英訳本を参照しているが、実に様々な言葉に訳している。それも文脈から「克服される」よりも適切の様に思われる。

それと、もう一つ気が付いたのは、訳語の違いではなくて文章が全然違うというところが非常に多い。英訳は長谷川訳の気になるところだけ拾い読みして参照してみるだけで全体を読んでいないが、それでもこれだけ文章が全く違うところが出てくるというのはどういうことだ。いくら長谷川氏が凡例で意訳していると断っていても。

そこで、素人の身も顧みず文献考証的な考察を少々。

ちなみにこの英訳はOxford Press  William Wallace訳です。この訳は百年以上前のものだそうで、1975年にOxford Pressからリプリント版が出ています。

長谷川宏訳はズールカンプ版ヘーゲル全集第八巻。おそらくズールカンプ版の方が新しいのでしょう。念のためにインターネットで検索するがズールカンプ版の出版時期は不明でした 

検索の時にヒットしたほかのサイトをのぞいたのですが、ヘーゲルの著作は死後出版されたものは、夫人や特定の弟子によって改竄が加えられていると主張するサイトがありました。「論理学」は生前に改版もされていますから、大幅な変更あるいは改竄が版によってあるとも考えにくい。 

もっとも論理学にも「口頭説明」なる部分が相当有り、これらは聴講した学生のメモを編集したものでしょうから、いくつかのバージョンがあるのかもしれない。

ま、その程度しか分からなかった。ドイツ語版が読めないので英訳と参照するしか無いのだが、少なくとも長谷川訳だけでは、どうかなと思います。



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