「問題はそこですな。誰でも不思議に思うのは」と老人は眼を細めてTを見た。
「書く、つまり小説を書くというのは暇つぶしなんだが、もう一つ「ボケ防止」という目的があるんですよ。5年ほど前に始めたが、なにも小説である必要はない。とにかく何か書くというのはボケ対策として有効らしいとしきりに言われているんですが、日記なんてのでもいいが、まず誰でも思いつくのだろうが、日記なんて平凡な老人生活を送っていると一日一行で終わってしまう。ま、時には一ページぐらい書くことがあるが、これじゃあまり効果が期待できない。そうでしょう」と老人はTに同意を求めるように視線を向けた。
「そうですねえ、よく年をとってから自分史を書くといいなんて勧める人がいるようですね」
「自分史ねえ、まだ生きているのが多いから差しさわりがあるからね」と意味ありげにつぶやいた。「ま、人に見せなければいいのだが、それじゃ張り合いがないしね」
「ふーん、俳句なんてのはどうなんですか。年を取ってから始める人がいるでしょう」
「あれはいかにも年寄じみていますね。かえって逆効果でしょう」
「それは偏見でしょう。若い人でも俳句を作る人がいますよ」
「それはそうだが、老人たちが集まって茶でもすすりながらぼそぼそやる、というのがあたしの句会のイメージでね。古い人間だから、どうもそういうことが最初に思い浮かぶ」
「それでいきなりポルノですか。どうも飛躍しすぎるみたいだ」
「いきなりじゃなかったな。最初はミステリーをトライしたんですよ。いまさら深刻ぶって文学作品と言うのもおかしいし、エンタメ系ならミステリーだと思ったんですな。わりに簡単でしたね。それでね、一応のものが出来たから懸賞に応募した」
「ほうそれで」とTは相手を見た。
「一次選考、二次選考を通って最終の候補に挙がったが、そこで選考委員の安っぽい書評屋にケチをつけられた。小説家の選考委員は支持してくれたんですがね。その講評、合評と言うのですか、を雑誌で見て腹が立ってね。それで応募することはやめてしまったんです」
「また、あきらめが早いですね。毎年応募していれば受賞していたかもしれないじゃないですか。最初の応募で最終候補までいったなら。大体そういう過程をたどるらしいですよ」
「そうかねえ」と老人はちょっと沈黙してから「いやそうじゃないね。ようするにその時に分かったことは、ああいう賞は出版社がブロイラーを見つけるようなものですよ。自分の都合のいいように編集者が育てて言われるとおりに、内容や執筆のペースをコントロールできるようなブロイラーや卵をコンスタントに生み続けるめんどりを探す手段なんですよ。だから若くなければならない。作品の質なんて関係ないんですよ。彼らに取り入らなければならなんじゃないかな」
「それは穿ちすぎじゃないですかね」
「とにかく、(あに五斗米にために幼児に膝を屈せんや)注、ですよ。やってられません」と老人は断言した。
注:陶淵明「あに五斗米の為に郷里の小児に膝を屈せんや」とある。
「太宰治は簡単に膝を屈したんですな。あんな真似は出来ません」