穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ムイシュキン公爵は主人公ではない2

2013-06-23 09:42:54 | 書評
6月16日のこのブログで白痴ではムイシュキン公爵は主人公ではない、形而上学的操作子であると書いた。

いささか素っ気ない記述であったし、鬼面人を驚かすものであったので、若干補足する。

形而上学的と書いたのはいささか大げさでしかも必要でもないので、単に操作子と書こう。主人公ではないというのも誤解があるかもしれない。主人公ではある。しかし、普通の主人公というよりはナレーターという色彩が濃い。小説劇の演技者であるとともに、記述者である。

この手の人物は他のドストエフスキーの作品にもよく出てくる。大体「私」という形で登場する。記述者としてのグラデーションにも差がある。

小説の中に黒子のように思いがけないときに現れる「私」の系列には「悪霊」、「未成年」などがある。

参加者的な「私」には「ステパンチコヴォ村の住人」等がある。ムイシュキンはこの系列でより参加者的である(主役)。

ドストエフスキーは二つの手紙(マイコフあて、姪あて)で白痴の執筆意図は「無条件に美しい人間を描くことです」と書いている。これが彼の顕在意識のなかにおける意図である。

この目的のためにムイシュキンを何故「白痴」としたのであろうか。聖痴愚でなければ「無条件に美しいひと」になれないからであろうか。そうではあるまい。

一読直ちに了解するところはムイシュキンは白痴ではない。なかなかすみに置けない人物であることはすぐ分かる。優れた心理的観察者であることもはっきりしている。彼に対して多くの「作品内の人物」がすぐに彼が白痴といわれることに疑問を表明している。考え方も理路整然としている。

それならドストエフスキーは反語として彼を白痴と読んだのであろうか。