「あなたは医学部に転部する前には哲学科だったんですよね」と専業主夫は前に彼から聞いたことを思い出した。「そのころからヘーゲルを読んでいたんですか」
いやいや、というとクタクタになった紙おしぼりを丁寧に伸ばすと耳の穴を拭きだした。
「ま、哲学科の学生としてはいろいろと手を出しますからね。もっともヘーゲルなんて言うのは哲学科の専売特許というわけでもない。法学部であろうと、経済学部であろうと、たいていの学生は興味を持っているでしょう。最近のことは知らないが、学生運動が盛んな時代だったから社会主義や共産主義の遠祖みたいだったヘーゲルにはみんな手を出していましたよ。何しろ初代教祖マルクスだけじゃなくて二代目教祖のレーニンもヘーゲルを大真面目でソ連流に仕立て上げようとしていたんですからね」
「マルクスが彼らの教祖様じゃないんですか」
「そう、そのマルクスが陶酔してヘーゲルを絶賛するからヘーゲルを疑う学生なんかいない」
「どう絶賛するんですか」
「ヘーゲルは頭で歩いている。つまり観念論ですな。それをひっくり返して足で歩かせれば、つまり唯物論でお色直しをすればそっくり使えるというように思いこんだ」
「本当にそんなことが出来るんですか」
「さあね、無理でしょうな」とあっさりと否定した。
マルクスの主著は資本論でしょう、それがどう関係するんですかと言うと、パチプロから馬券師に転身した彼は困ったように第九を見た。
「彼ら、つまり社会主義研究者はヘーゲルの「論理学」と「資本論」をパラレルにみるようですね。もっとも最近では資本論はヘーゲルの「法の哲学」の真似だという意見も出てきたらしい。「いずれにしても死後二百年もしてそういう詮索がなされるということがヘーゲルの偉大なところでしょうな」と橘氏は答えた。
私はね、と彼は話した。最初に「精神現象学」を読んだんですよ。ヘーゲルの処女作、ただし、匿名出版は除きますがね。これは面白く最後まで読みました。それでね、彼の第二作である「論理学」にとっかかったらチンプンカンプンでね。当時のしてきたウィトゲンシュタインや勃興してきた分析哲学の連中が嘲笑ったように「ジャーゴンの堆積」としか思えなかった」
なんですか、ジャーゴンって。
「たわごとということですよ。しかしねえ」と彼は思い入れよろしく大きなため息をついた。「たわごと」と聞いて安心したものの、学会の一部か大部分かしらないが、世評の高いヘーゲルが理解できないのは何となく残念というか不安でね。それでね、今回のコロナ騒ぎで家の喧騒から山手線に避難したときに、もう一度挑戦しようと思った。不思議なことに彼の論理学は捨てないでまだ残してあったんですよ。私はたいていの本は読んだら捨ててしまうんですけどね」
「なんだか気になっていたんでしょうね」