穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

ドストエフスキーと蛮族

2009-08-03 07:21:27 | ドストエフスキー書評

ドストエフスキーが社会、時事問題に強い関心を持っていたことは知られている。活発な時事評論活動をしている。彼は自分で雑誌を発行していた時期があり多くの時事評論を発表している。また彼の「作家の日記」シリーズの中には中、短編の小説のほかに時事評論がある。

ドストエフスキーの主張は保守といわれる。当時の外交問題については周辺の回教諸国なかんずくトルコ帝国への憎悪がむき出しになっているのが特徴である。

実態は逆でロシアの南方への帝国主義的膨張政策がトルコにとって、清王朝にとって、そして日本帝国にとって脅威となっていたのであるが、ドストエフスキーはとくに、トルコからロシアが脅威を受けていたように思っていたらしい。

これもロシア・ツアー帝国の宣伝活動をうのみにしていたからであろう。彼ら西欧(ロシアが西欧かどうかは問題で欧州であるかも疑問があるところだが)諸国お得意の宣伝謀略活動のお先棒を担いでいるわけである。その一つとしてこれまで「カラマーゾフの兄弟」について論じてきたからその中から例の「大審問官」のくだりを見てみよう。

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イワン・カラマーゾフ作の「大審問官物語」のなかで幼児虐待のコレクションが披露される。なかに、当時トルコの支配下にあったブルガリアかどこかで、トルコ兵が母親の目の前で幼児を空中に放りあげて下から銃剣で串刺しにするくだりがある。ドスト君は大真面目でこれを信用していたらしい。

アメリカ大陸でインディアンを虐殺しながら西部へ入植したアメリカ人がアメリカ・インディアンが捕まえた白人の生皮をはいでいるだのと宣伝したのと軌を一にする代り映えのしないパターンである。問題はドストエフスキーがこれを信じ切っていることである。

「神がいなければすべてが許される」などと深刻ぶって大弁舌をふるっていたイワン君がである。思い出しませんか、マレイシアの教科書だったかに、第二次世界大戦で日本兵が華僑の幼児にまったく同じことをしたと書いていたことを。ネタ本は明らかである。

マレイシアはマレイ人と流れてきた華僑で成り立っている。マレイ人は回教徒である。回教徒の残虐を示す話としてドスト本からか、あるいはもっとさかのぼった共通の根っこから同じ話が華僑にひろがっていたと思われる。あるいはドストエフスキーを読んだシナ共産党員が第二次大戦で反日宣伝のために広めた話かもしれない。

マレイシアではマレイ人が華僑の横暴、残虐に対して過去しばしば暴動を起こしている。おそらく本当の被害者は華僑に経済的に搾取され、植民地支配されたマレイ人なのだろうが。実態はアベコベに違いない。

つづく


ドミートリー・カラマーゾフの回心

2009-08-01 09:32:29 | ドストエフスキー書評

幼児、少年の虐待、悲惨、不幸が「カラマーゾフの兄弟」のキーワードである。そしてその責任は父にあるというわけである。

作中重要な三個所を先に指摘したが、もうひとつあった。

長男ドミートリーが郊外のモークロエで二度目の豪遊散財をしているところに、親殺しの容疑者として警察と検察が逮捕に乗り込んでくる。徹夜の尋問と証人尋問が明け方におわり、ミーチャ(ドミートリー)が一時間ほど仮眠する間に夢を見る。

火災で焼け出された村のそばを馬車で通る。女が乳飲み子を抱いているが乳が出ない。これが夢である。この夢が覚めた後にミーチャは生き返ったようになる。別人のようにする。どうしてか、ということは書いていない。

この悲惨はわれわれに責任がある、ということらしい。「父」に責任がある。地主に責任がある。社会に責任がある。すべての人は他人に対して罪を負っている、というテーマと関係するらしい。

ドストエフスキーの少年時代、父の領地で農民が火災にあい、領主の屋敷は被災しなかったという思い出と関係しているらしい。領主=農奴の父、社会=悲惨にあえぐ貧民の父、皇帝=臣民の父という等式があるらしい。

予告された続編でアリョーシャが皇帝暗殺団の頭目になるという構想があったそうだが、筋はつながっているようだ。