穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

第X(10)章 母の変身

2016-08-11 10:25:39 | 反復と忘却

父も母も大変な変身したのである。父は母の遺品を整理していなかった。保存したというより手をつけずにそのままにしていた。父が亡くなって兄弟で形見分けした後で残った引き取り手のない遺品を整理した。金目の物は兄弟が持って行ってしまったから反古みたいなものがほとんどだった。そのときに父の遺品と同時に沢山出て来た母の遺品を調べた時のことである。

遺品といっても大したものがあるわけではない。和服などは母の葬儀後妹達が根こそぎ持って行ってしまったし、装身具等も何も無かったからこれも父が娘達に与えたか妹達が勝手に分けたのであろう。残っていたのは手紙、メモそれに和歌の原稿だった。母は生涯和歌をたしなんでいたのである。そのほかに書類というか資料というか母が結婚前に属していたらしい地方の文化サークルらしきところの発行している同人誌のような会誌があった。

父がこれらの内容をチェックしたことが無いのは明らかのようである。中には母が父と結婚する前に交際していた男性からと思われる皮肉っぽい恨み節ともとれる手紙等もあった。それらは何十年も解かれたことがないらしいこよりで硬く縛られていた。父が中を見なかったことは明らかであった。

もっとも和歌の原稿は父が目を通して整理していた。父は母の死後、母の残した和歌を編集して懇意にしていた出版社から自費出版したのである。とにかくその時は処分に困って地方に住んでいる叔母に電話してそれらの遺品を送ろうとしたのだが、そちらで処分してくれといわれた。

その時にクラッシック音楽の愛好会が毎月開催していたらしい演奏会の内容についての会誌のことを聞いた。それも処分して良いということだったが、ついでにその頃の母のことを聞いてみたのである。

母は大変な文学少女で島にある祖父の別荘に若い男女が集まって響宴でもしているようににぎやかだったという。彼の知っている母とはまったく違っていたので驚いたのである。いったい母はどのようにして彼の知っている女性になったのだろうか。その「調整」の過程の一端を示す手紙が母の遺品のなかにあった。

それは父から母にあてた何通もの手紙だった。日付から判断すると結婚して2、3年目のことらしい。おそらく仲人口とあまりに違う現実の複雑さにびっくりしてしまったのだろう。母は生後まもない三四郎をつれて実家に戻っていたのである。父は手紙で何回も母に戻ってくる様に「指示」していたのであった。いかにも父らしい一方的で教示的な手紙だった。とにかく帰りの日時、汽車の時間まで指示してある。乗り継ぎの方法、切符の買い方まで書いてある。

 

 


第X(10)章 聖アウグスティヌスのなげき

2016-08-10 09:16:04 | 反復と忘却

母が死んだ時に通夜の席で一郎が「お母さんは芯の強い人だったね」と三四郎に言ったのである。母は極端に神経質で父親には全く自分から意見を言うようなこともなかったから非常に意外な思いがした。父親に対して自分の意見をあくまでも主張する等ということは見たこともなかった。とうてい相鎚を打てるような話題でもなく、彼は黙っていた。そのうちに他の話題に移って行ったのであるが、兄の言葉が異様に響いたのでそのことだけは記憶に残っていた。

母は自分自身が父に対して従順であっただけでなく、彼にも父に逆らわない様にしつけをした。それのみならず兄達に対しても機嫌を損ねることがないようにと、それを基準にして彼を神経質にしつけた。母は彼をno(何々をしてはいけません)という無数の環を結びつけた鎖で十重二十重に縛り付けたのである。しかし妹達についてはまったく躾を放棄していた。これが三四郎には理解できない不条理と映った。

母が死ぬ数年前であったが、彼に「私が死んだらあなたはどうなるだろうね」と不安そうに呟いたことがある。いまにして思うと、母が彼に向っても言うようでも無く、独り言とも聞こえるつぶやきが重大な意味合いを伴って思い出されることが他にもいくつかある。続けて母は兄達から三四郎がどんな不都合な扱いを受けるか心配している様に「お兄さん達の言うことを良く聞いてね」と言った。そのとき彼も成人していたのであるが、大人になった彼に対しても、自分がいなくなったら兄達が彼に危害を加えるのではないか、とまるで心配しているようであった。

聖アウグスティヌスがなげくように、我々は自分の幼時のことや少年期の初期のことを記憶していない。記憶していると思っている場合は、少年期に母親や身近に生活をしていた祖母や忠実な乳母などから自分の幼時のことを繰り返し聞かされて、それが直接の記憶の様に思い出されるだけである。三島由紀夫の「仮面の告白」における祖母や中勘助の「銀の匙」のなかでの乳母のような場合である。彼の場合にはそのような存在は皆無だったのである。

そして幼時や少年期の初期の体験がいまの自分のほとんどを作り上げていることに鑑みると聖アウグスティヌスの悔しさや歯ぎしりそして嘆きがわかるのである。アウグスティヌスは「だから私は青年期のはじめからこの告白をはじめる」と書いている。

彼に対してとは逆に妹達へのしつけを放棄したのはしたたかな「芯の強い」母親の復讐であった。ぎらつく「父という太陽の光源」が消灯したあとに浮かび上がって来た「真実」である。

 


第X(9)章 女としての母

2016-08-08 20:00:02 | 反復と忘却

三四郎の母は父の死亡した数年前に亡くなったのであるが、きょうだいたちの新しい面に気が付いたと同様に死亡した母についても新しい姿が見える様になった。 

彼にとって母は聖女のような存在であった。また、父との関係では暴虐な夫に虐げられた妻という観念であった。その認識は変わる訳ではないが、新しい母の側面と言うか、陰翳というものが理解できるようになった。それは女性としての母が見えて来たということだろうか。母が、そして父が生きている間は彼女の像というものは三四郎には単純明確でもあり、そんなに複雑なものではなかった。

しかしながら夫婦の関係というのは複雑なものらしい。多様なものであるらしい。暴虐な夫と忍従の妻という関係は世間ではそう珍しい存在ではないらしい。また、そのために妻が不幸とも必ずしも言えないようなのである。暴虐が愛情の欠如というわけでもないとドストエフスキーは「地下室の手記」で書いている。そういう形でしか愛情を表現できない人間がいるという。そして妻もそういう夫の愛情を理解するというのである。

母は父のいない所でも決して父のことを悪く言わなかったし、夫婦の日常を見ている三四郎が父に悪い感情を持つのを心配して父のことを褒めることしかしなかった。「お父さんは決して手をあげるようなことはなさらなかった」と彼にいったことがあった。反対に彼は父にはよく殴られたのであるが。

父の母に対する暴圧はもっぱら口によるものであって、サディスティックとも言えたが、母がそれに耐えられなかったというわけでもない。女性というのは強靭なものらしい。柳に風と受け流していた風でもあった。身体が生来あまり強くないにも関わらず長命だったのもそのせいかもしれない。

しかし、母もさすがに女だったな、と気が付いたことがある。母は彼女の流儀でちゃんと父に復讐をしてもいたのである。強烈な夕陽の水平直射が視界を暗くしていた。日没とともに明らかになることもあるのである。満天にきらめく星々のように。

 


第X(8)章 種馬のつぶやき

2016-08-04 08:57:46 | 反復と忘却

 まだ会社にいたころだが、おふくろが死んだ。葬式の時車の中で親父が「大した子供が出来なくて」と呟いた。それは自分の息子達に失望した様にも聞こえた。三人の妻を乗り継いだ精力家ではあったが、前の二人とはほんのあっという間に死別してしまったのにくらべて、三四郎達の母の場合には三十年近く続いたので、母の死はショックであった様子であった。彼自身もようやく衰えを自身で感じ始めていたこともあるのだろう。火葬場から家に帰っていた時には靴も脱がずに家に上がり込んだ。靴を履いていることに気が付かないほど放心していたのだろう。

あまり子供達について感想を述べることが無かった父から聞いた初めての述懐であった。そのときに、俺はおやと思った。父親は子供達の発達と言うか成功を心の底では望んでいたのだろうか、と意外に思った。子供の成功をねがわない親は無い筈だがおやじまでがそうだとは感じたことがなかった。彼のこども、特に男子の場合は、我が子という意識よりもいずれは自分に敵対して乗り越えて行く人間というスタンスを見ていた。

これは父の死後、闇に包まれていた父方の、気障な言葉で言えば、ルーツ探しをしたときに分かったのであるが、我が家系は代々子供が父親を乗り越えて行く傾向があったらしい。父親自身が自分の父親を踏み越えていった形跡がある。その時の紛糾混乱がその後の郷里の親類との断絶の原因となっているようだ。したがって男の子供達にたいしてもやがて自分の対抗者になるという警戒心が強かったらしい。

それに加えて、彼自身が大変な成功者であったことも影響したのだろう。一般的に一生うだつの上がらない境涯にいれば息子の成功だけに期待をかけるものである。自分の青年時代の経験から、子供に追い越される恐怖感が始終あったらしい。だから子供が急速に成長し始める思春期には露骨に対抗心が現れる。類人猿学のフィールドワークに「猿の子殺し」という分野がある。親父にはなにかそういう原始的なエネルギーがマグマとしてあったようである。

彼の長兄も高校性の頃、父親にきびしく当たられておかしくなってしまったそうである。躾あるいは勉学の指導と言う形をとったようであるが、兄は一時級友達から「おかしくなった」といわれたと聞いた。落第はする、いまでいう「不純異性交遊」はするという状態になったらしい。

俺も中学生の夏に過酷な一撃を受けた影響が今も尾を引いている。だから本当のつぶやきは「おれは息子の発展は実は望んでいなかったのだ、そうしてみんなその通りになった」という述懐の裏返しだったのだろう。自分自身が大変な成功者になったのだから、息子達に自分を追い越す発展をしてもらいたくなかったのだろう。

 


X(7)章 厩戸皇子

2016-08-02 09:46:02 | 反復と忘却

きょうだいや親戚が父の死後全然別の顔を見せだしたということにも驚いたが、考えてみると親父のことをなにもしらないのに気が付いた。親父との会話がない家庭であったから父から父の家や祖先の話を聞いたこともない。出身は大変遠隔な山間の僻地であり、三四郎は一回も父の故郷に行ったことがない。父も一言も口にしなかった。大体、父は昔一族となにか経緯があってもめたらしく一切郷里の親族と交流しなかった。父方の親戚が家を尋ねてくることも絶えてなかった。 

そういえば、二十歳も年が上の兄が一度父の郷里に行こうとしたことがあるそうだ。ところが父は広島まで行くと、一人で行くと言って兄を残して郷里に向ったという。

唯一の親戚は父の弟であり、この人は時々父のところに来たが、なにも父の家のことや自分たちの若い頃の話をしなかったような気がする。子供の頃なにか聞いたような気もするが、その度にはぐらかされてしまう。ぎらつく太陽を直視するようで、父にはそういう話題を仕掛けることは考えたこともなかった。

 一方は母の実家のことは比較的身近に感じていた。母の親戚が時々田舎から尋ねてきたし、母の実家には大学時代旅行したことがあった。父の死によって改めて巨大の空虚が嫌でも目の前に迫ってくる様になると、その無知が異様なことに思われて来た。大体、こんなに父について無知なのは世間では異常らしい。

そんな父の周りのことを調べる気になったのは、死後半年ほどしてからだろうか。父の遺品のなかに随分と色々ながらくたやメモがあった。そのなかに鉛筆で描いた父の「生家」と記されたデッサンがあった。台所の他二間しかない。居間というのか食堂というのか寝室というのか、その隣に同じ屋根の下に厩と書いたスペースがあった。貧農であったので農耕馬と一つ屋根の下で暮らしていたのだろう。

父は東京に出て来て、大学を卒業してから運が向いて来て大変な出世をしたわけである。そういえば、父は非常に田舎者らしい一面があったと同時に、時々「田舎者は」と侮蔑したように言うことがあった。父が郷里と縁を切ろうとした理由なのであろうか。

 


第X(6)章 わたしは青空が嫌いだ

2016-08-01 07:51:00 | 反復と忘却

(今後カテゴリー「小説のようなもの」を「反復と忘却」に変更します。) 

親父は百歳に垂んとする長寿を全うして生涯を終えた。最後まで精神ははっきりとしていた。もっともそうと断言する根拠はないのである。なにしろほとんど会話のない親子であったから、ぼけていったかどうかはハッキリとわからない。黙っている限り立ち居振る舞いには全く変化は感じられなかった。従って「言動」のうち、「動」にはまったく痴呆は感じられなかったのである。肺炎で死んだのである。老衰という感じはまったく無かった。

さて大おやじのあとの空虚はブラックホールが出来たような物で大渦にしばらくは翻弄されたが、それが収まると家族がまったく違って見えて来たのは不思議だった。また世界政治の話を持ち出して大げさで恐縮であるが、独裁者チトー大統領が死亡した後のユーゴスラビアのような混乱状態になったのである。ここで諸君は言うだろう。これは私的なメモだろう、まるで講演でもしているみたいだぜ、と。そうなのである、これは私的なメモである、ただ少しでも格調高く書くには仮想読者を想定した方がいいかなと考えたのである。なにしろこちらは書くことでは初心者であるから。 

ま、コソボ紛争やボスニア・ヘルツェゴビナの内戦でも起きそうな気配が漂ったのである。そこはそれ、みな良識があるからボヤは広がらなかった。とにかく親父という重しが取れると皆本性が現れてくるというか、予想しない言動にあっけにとられることも多かった。

どこかで、だれか、たしか詩人だったと思うが、「私は青空が嫌いだ」と書いていたのを読んだ記憶がある。昼間は太陽が出ているから星がまったく見えない。太陽が沈んだ夜は星がはっきりと見えてくるというのである。昼でも天穹には無数の星がある。青空が広がっているから見えないだけなのである。 

この詩人の言葉を思い出した。親父という太陽が沈むと、いままで見えなかったことが沢山見えて来たのである。あるいはこの言葉を思い出したのはそのころ外房に旅行した時の体験に誘発されたのかもしれない。鴨川に泊まった日の明け方であった。どういう訳か深夜に目が醒めてしまった。そう言う時のために旅行の時には文庫本を持参する。寝付けない時はそう言う本を10頁ほども読めばまた、眠くなるのである。ところがその夜はますます目が冴えて来た。

ふと思いついて海岸を散歩しようと外に出た。海の上は星が無数に輝いている。まるで部屋の天井にぶら下がっている照明のように手が届くような気がした。そのときに詩人の言葉を思い出したのである。気障に聞こえるかも知れないが空が話しかけてくるような気がした。前にも書いたかも知れないが、私の親戚でソクラテスのように空と会話する人間がいた。その人は後に新興宗教の教祖になったのである。私にもそういう気がすこしあるのかも知れない。