父も母も大変な変身したのである。父は母の遺品を整理していなかった。保存したというより手をつけずにそのままにしていた。父が亡くなって兄弟で形見分けした後で残った引き取り手のない遺品を整理した。金目の物は兄弟が持って行ってしまったから反古みたいなものがほとんどだった。そのときに父の遺品と同時に沢山出て来た母の遺品を調べた時のことである。
遺品といっても大したものがあるわけではない。和服などは母の葬儀後妹達が根こそぎ持って行ってしまったし、装身具等も何も無かったからこれも父が娘達に与えたか妹達が勝手に分けたのであろう。残っていたのは手紙、メモそれに和歌の原稿だった。母は生涯和歌をたしなんでいたのである。そのほかに書類というか資料というか母が結婚前に属していたらしい地方の文化サークルらしきところの発行している同人誌のような会誌があった。
父がこれらの内容をチェックしたことが無いのは明らかのようである。中には母が父と結婚する前に交際していた男性からと思われる皮肉っぽい恨み節ともとれる手紙等もあった。それらは何十年も解かれたことがないらしいこよりで硬く縛られていた。父が中を見なかったことは明らかであった。
もっとも和歌の原稿は父が目を通して整理していた。父は母の死後、母の残した和歌を編集して懇意にしていた出版社から自費出版したのである。とにかくその時は処分に困って地方に住んでいる叔母に電話してそれらの遺品を送ろうとしたのだが、そちらで処分してくれといわれた。
その時にクラッシック音楽の愛好会が毎月開催していたらしい演奏会の内容についての会誌のことを聞いた。それも処分して良いということだったが、ついでにその頃の母のことを聞いてみたのである。
母は大変な文学少女で島にある祖父の別荘に若い男女が集まって響宴でもしているようににぎやかだったという。彼の知っている母とはまったく違っていたので驚いたのである。いったい母はどのようにして彼の知っている女性になったのだろうか。その「調整」の過程の一端を示す手紙が母の遺品のなかにあった。
それは父から母にあてた何通もの手紙だった。日付から判断すると結婚して2、3年目のことらしい。おそらく仲人口とあまりに違う現実の複雑さにびっくりしてしまったのだろう。母は生後まもない三四郎をつれて実家に戻っていたのである。父は手紙で何回も母に戻ってくる様に「指示」していたのであった。いかにも父らしい一方的で教示的な手紙だった。とにかく帰りの日時、汽車の時間まで指示してある。乗り継ぎの方法、切符の買い方まで書いてある。