友達が「駐車場」と、書こうとして「駐」の字のへんを、くるまへんにしそうになったというので、それも有りやねと話した後思った。
自転車を停めるところは「駐輪場」だ。今では馬を停めるということはない。そもそも、馬を停めるところは「馬留め」「馬駐(うまとどめ)」という。そこから「駐」の字が出来た訳だが、言葉づかいは時代と共に変遷していくのに、漢字は新しいものが出来ない。古くて難しい漢字は淘汰されるが、新漢字発表はない。
「主」とは何かということになる。主は動かないことを表す。燭台の上で炎が燃えている様子らしい。なので、じっとしている主の横に木へんがくると「柱」となる。人が動かないところ「住」。同じところに落ちる水は「注」で、そそぐのであるから、注意、注目となる。でも、やはり現代では車が動かないところは車へんにしたいよね。「漢字には意味があります」と勉強しても、「さて、新しい漢字を作りましょう」と、言うのはない。理不尽である。昔の人が知恵を寄せて考えた漢字を知らなくて「こんな漢字も書けないのか」と、言われたりして勉強不足を反省させられる。漢字に関しては完全に受け身である。憂鬱なんぞは、見ているだけで憂鬱である。「鬱」の字を書けることを自慢したら「字も見たくない」と、断られた。「へえー」と言われたくて覚えたが、確かにそういう気がする。この頃は「うつ病」と漢字で書かないのはそういう意味もあると思う。
しかし、昔からある漢字は本当に良く考えられている。にわかに覆せないのである。だからという訳ではないが、最近は漢字よりカタカナが多い。コラボ、シチュエーション、イノ―ベーション、アセスメントなどなど。リフォームが当たり前かと思ったら、リノベーションときた。外注と言えばいいのに、アウトソーシングだって。ついていけないね。
そういえば、弓道で射抜きをすることを、誰かが「弓道のサドンデス」と、言ったら、前会長がすごく怒っていたっけ。怒る人がいなくなるって寂しい。
自然に任せるのがよいと思います。
日本語を在来種のように保護するのも悪くはないですが、それは学校か、時代劇の中でやればいいのです。
「車をとめる」を「車を駐める」と書いたり、「一杯やる」を「一杯飲る」と書くのもありだと思います。
遣いやすくて、気持ちが込められる言葉が、後の世に引き継がれるのではないでしょうか。
あくまで、個人の意見です。
夏目漱石は、今の人ではないですが、相当誤字、当て字があります。
その頃の人たちに嘆かれたのではないでしょうか。
それでも、知らず知らず読んでしまっているので、伝わればよいという類ですよね。
それを、探すのも面白いです。